囲碁史記 第94回 大阪時代の井上家(前編)
井上松本因碩の逝去
明治初期、家元井上家が孤立していたことはすでに紹介したとおりである。
松本因碩は安政六年(一八五九)に本因坊秀和が名人碁所就位を出願した際や、元治元年(一八六四)の村瀬秀甫の七段昇段、明治元年(一八六八)に林秀栄が四段昇段した際など、本因坊家のすることにことごとく意を唱えていた。当時の家元四家の関係は、林秀栄は秀和の次男であり、安井算英は幼い時より本因坊家で修行するなど、井上家以外は本因坊家に近い当主で占められており、明治五年刊行の「壬申改定の囲棋人名録」で井上門下だけ掲載しないなど井上家排除の動きが広がっていくこととなる。
秀和亡き後、伊藤松和の仲介により一旦和解が成立したものの、松和が亡くなると再び関係は悪化し、明治十二年に家元も参加して囲碁研究会「方円社」が設立された際にも、松本因碩へは参加の声がかからなかった。方円社は設立間もなく家元側が脱退して分裂しているが、その理由の一つに当初約束した井上門下の社員の退社が行われていないことがあげられている。
井上松本因碩が本因坊家と対立したのは本人の性格もあるのだろうが、もともと林門下であった松本が旧主君である老中久世広周の強引とも言える推挙により井上家を継いだため存在感を示そうとしたのかもしれない。井上家では先々代の幻庵因碩が名人碁所の座をめぐり本因坊家と激しく争ったという経緯がある。
そうした中でも井上家は他の家元とは異なり生活は安定していたという。多くの門人や囲碁の指導を依頼する顧客が居たためで、関係深かった旧熊本藩の細川家から支援のため、扶持を与えるので熊本へ移らないかと誘われたものの、家元として東京での活動にこだわった因碩は断っている。
松本因碩は、その後も悠々自適の生活を送り、後進の育成にあたる余生を送っていたと伝えられている。
松本因碩が亡くなったのは明治二十四年(一八九一)のことで、神戸滞在時に客死している。
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