囲碁史記 第68回 本因坊秀和と伊藤松和の逝去
囲碁界の衰退
前回も述べたが、江戸幕府の崩壊および明治維新という社会情勢の劇的変化は囲碁界を取り巻く状況にも大きな影響を及ぼしている。
御城碁の廃止により家元達の研究および技量の披露の場が失われたほか、政府が家元への支援が徐々に打ち切っていったため経済的にも困窮していった。大名・旗本、商人など、富裕層からの囲碁の指南料も大きな収入の柱であったが、依頼はめっきり減っていたという。そうした中で、本因坊秀和や伊藤松和は囲碁界の重鎮として、その行く末に危機感を抱いていた。
江戸時代より、色々なものを相撲の番付表に見立ててランキングすることが流行っているが、明治四年に、これから流行っていくもの、廃れていくものをまとめた「興廃競」という番付表が発行されている。
番付表を見ると不流行の部に「碁会所」がランキングされていることが分かる。
維新後、明治新政府は日本の近代化のために西洋文化を積極的に取り入れていく。その結果、西洋至上主義というか、従来の日本的なものは時代遅れという風潮が生まれる。囲碁も例外ではなく、碁打ち達は苦難の時期を迎えている。
ちなみに番付表の不流行の部で最高位大関に選ばれたのは、大名行列の先頭で担いでいた金紋(金箔や金漆で描いた家紋)をつけた挟み箱(棒を通して従者に担がせた箱)である「金紋先箱」、関脇は茶器の価(値打ち)、流行の部の大関は「皇国学」、関脇は「蒸気の乗合」(鉄道)である。
本因坊秀和の晩年
本因坊屋敷の一部を借家に
前回も紹介したが、社会の劇的変化の中で衰退していく囲碁界の活性化のため、秀和は御城碁に代わる囲碁研究機関として「三の日会」を立ち上げている。しかし、会への参加者が順調に増えていく一方で、開催のための費用が不足するという問題に直面していった。太平の世なら有力支援者が援助してくれたのだろうが、維新直後の日本にそのような余裕のある人物はいない。また、碁打ち達の収入源であった囲碁指南を依頼する人もほとんどいない状態となったため、秀和は資金の捻出に頭を痛めている。 しかし追い打ちをかけるように、その年の暮れには政府からの五十石五人扶持の碌が十三石にまで減らされ、普段の生活にも支障をきたすようになっていったという。
こうした問題の解決策として秀和が考えたのが広い屋敷の一部を借家として貸し出すことであった。
拝領屋敷は広大な敷地に多くの部屋がある大きな屋敷が建ち、幕末期には道場としても使用されていた。かつて、ここでは多くの門弟たちが修行に励んでいたが、動乱の中で門弟たちのほとんどが国元へ帰ってしまったため空き部屋が増えていたという。このまま部屋を遊ばしておくのはもったいないということで、間仕切りして貸し出すこととしたのである。
本因坊家屋敷の火災
秀和の屋敷の一部を貸し出すという策は、問題の根本的解決策ではなかったが、一時しのぎとしては確かに有効な策であった。幕府から明治新政府へと変わった当時、人の入れ替わりが激しくなった首都東京では、借家のニーズは高く、借り手はすぐに見つかったという。
しかし、皮肉にもこれが結果として裏目に出てしった。借家が貸し出されて間もない明治三年の春まだ浅いある夜に、その借家の一つが火元となって、母屋はもちろん周辺数十戸が類焼する火災が発生したのである。
当時の状況について『坐隠談叢』には次のように記述されている。
時勢の変遷は遊食を許さず、すなわち邸第を区画して借家に供したるに、当時、戦後の東京なれば、日ならず求むる人ありて、これを貸与し、やや安堵する暇もなく 同年烈風吹き荒みし夜、俄然借家より火を失して、紅蓮を伝ひ、棟を走りて、借家全戸と本因坊家を甜め去り 類は数十戸に及べり。
秀和は着の身着のまま、跡目の秀悦に家宝の浮木の盤や家伝の書を持たせ、家族や弟子とともに川岸へ脱出。燃え堕ちる屋敷を見つめ立ち尽くしたと伝えられている。
この罹災によって本因坊家は伝来の什器類の多くを失っている。浮木の盤こそ焼失を免れたが、宝物の第一に数えられた草の盤や蒔絵碁盤、葵紋の 碁笥などの名品はこのとき失われたようである。
屋敷内で焼け残ったのは倉庫のみで、秀和たちは板がこいして雨露を凌いだと伝えられている。
秀和を見舞った門下の伊藤松和は、見るに見かねて大阪の門人で豪家の日野屋小十郎に支援を頼むよう勧めたが、秀和は有難いお話だが、直接の責任ではないにせよ屋敷内が火元 になって多くの人に迷惑をかけたのに、自分だけいい生活をするわけにはいかないといって断ったという。
秀和の最期
屋敷を失った本因坊であるが、息子の秀悦らの差さえもあり生活も徐々に改善しつつあった。また、こうした状況であっても「三の日会」は何とか維持されていたという。
しかし、さらなる追い打ちをかけるように、明治四年には東京府より次のような通達が出されている。
本因坊秀和
生産資本の為に二ヵ年分祿高、一時に下げ渡し申し付け 候事。
辛未十一月二十九日
東京府
要するに家元への碌の支給を廃止するから職業が成り立つように準備せよ、そのため二年分の祿高を一 度に下げ渡すということである。
実際にこの時にいくら支給されたのか分からないが、すでに二年前に石高は五十石五人扶持から十三石に削減された状態であった。
生活に困窮する秀和は、この頃、現実から目を背けるようにひたすら碁を打ち続ける生活を送っていたという。
最晩年の秀和は明治四年に弟子の村瀬秀甫が越後逗留から数年ぶりに帰京したため、集中的に対局している。五十二歳の秀和に対し、三十四歳と打ち盛りの秀甫は、初めて白番で打つ事になり、後援者を呼ぶなど大いにはりきって臨んでいるが、老練な秀和に負かされてしまい、今さらながら師匠の実力に驚かされたという。一方で秀和も、秀甫はすでに名人の域に達している。もし秀策が今の秀甫と対局しても勝てないかもしれないと、実子の秀栄に語っていたと伝えられている。
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