囲碁史記 第74回 方円社を支えた中川亀三郎と小林鉄次郎
明治十二年、維新という時代の風にのって設立された「方円社」、そのトップである村瀬秀甫以外の主要な人物を紹介していく。
初代 中川亀三郎
東京を離れていた秀甫とつながりを持ち、実質的に方円社設立を主導したのが中川亀三郎である。
亀三郎は十二世本因坊丈和の三男で、天保八年(一八三七)に生まれる。長兄の井上節山因碩は丈和の先妻・達子の子で、後妻・勢子の間には亀三郎のほか、次兄の松次郎(二世葛野忠左衛門)、長女で秀策の妻ハナ、亀三郎の下には四男と次女がいた。
幼名を長三郎といい、後に亀三郎と改名。旧姓は葛野を名乗り叔父の家を相続して中川姓を名乗ることになる。中川家は御家人ともいわれている。
幼時は石を握ったことがなく、弘化四年、十一歳のとき父丈和が亡くなってから碁を覚えたという。嘉永二年正月、十三歳のときに義兄秀策に伴われて初めて本因坊秀和の門となる。入門後、秀策に鍛えられた亀三郎は丈和の血筋を引くだけあって、嘉永五年、十六 歳で入段、安政三年、二十歳で三段、翌年に 四段、文久二年、二十六歳で五段、慶応二年、三十歳のときには六段と順調に昇進していく。ただ、一歳下で兄弟子の村瀬秀甫は秀策と並び称される実力を示していたことから、厳しい内弟子の修行時代に丈和の子ということでどうしても特別扱いされてしまったことで実力が伸び悩んでしまったともいわれていく。実際、亀三郎が活躍していくのは明治十二年の方円社創立以後のことである。維新時には三十二歳になっていた。
明治二年八月三日、亀三郎は安井算英、林秀栄、本因坊秀悦、吉田半十郎、小林鉄次郎と共に研究会「六人会」を発会する。御城碁に代わる活躍の場であり、会場は中川邸であった。「六人会」はやがてその趣旨に賛同した本因坊秀和により「三の日会」へと発展していく。会場は本因坊邸と中川邸で交互に行われた。
その後、「三の日会」は資金難と秀和の死により消滅するが、亀三郎により復活している。しかし、この時秀悦や秀栄には参加の声がかからず、その焦りが秀悦の発病のきっかけのひとつになったともいわれている。
明治十一年(一八七八)には郵便報知新聞において高橋杵三郎との対局が初の新聞碁として掲載される。
同年、本因坊秀悦の発病により、秀栄より後継候補として東京を離れている秀甫への打診を頼まれる。亀三郎は一旦秀甫が辞退する旨を伝えたうえで、後継者が百三郎に内定した段階で秀甫の後継承諾の考えを伝えた。秀栄は激怒し話はつぶれるが、これは亀三郎が秀甫に正しい情報を伝えず、話を上手くまとめた自分が秀甫の跡目になることを目論んだとか、順調な「三の日会」に秀甫を迎え、新組織を立ち上げる目論見があったという説もある。
明治十二年四月に囲碁研究会「方円社」が発会する。しかし、当初参加していた家元との意見の対立により九月には分裂し、方円社は秀甫を社長とする会社組織として再出発する。亀三郎は副社長に就任している。そのあたりについては別の機会で詳しく説明する。
亀三郎は明治十三年五月、方円社員の推薦で七段に昇段している。(四十五歳のときである。
明治十九年十月、林家を廃し本因坊家を継承していた秀栄と秀甫が和解し、本因坊家と方円社が合流、村瀬秀甫は十八世本因坊秀甫となるが、間もなく秀甫が没し、 本因坊後継者問題が土屋秀栄との間に起る。周囲が亀三郎を十九世本因坊へという動きをみせ、後藤象二郎もこれを支持していたが、これに反発した秀栄が本因坊は碁界の第一人者がなるべきだと争碁を申し入れる。しかし亀三郎は争碁を避けて秀栄に譲り、再び方円社を本因坊家と分離させて二代社長に就任している。
明治三十二年、八段準名人に昇り、社長の椅子を巌埼健造に譲ると、同三十六年(一九〇三)九月十三日没。六十七歳。
門弟に石井千治、雁金準一らがいる。亡くなる際、遺言で石井を養子とし、石井が後に二代目中川亀三郎を名乗ったので、初代は大中川とも称されている。
墓は谷中霊園にあり、墓誌には亀三郎、その養子の千治、さらに千治の養子となった新の三代にわたる棋士の名が刻まれている。
中川亀三郎の住所
「六人会」「三の日会」を自宅で催し、村瀬秀甫を擁して「方円社」設立するなど、明治初期の囲碁界のキーマンであった中川亀三郎はどこに住んでいたのだろうか。
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