囲碁史記 第101回 四象会の終焉
棋界第一人者となった本因坊秀栄が高田商会の高田たみ子の支援を受けて明治二十八年に立ち上げた四象会は、対立する方円社からも参加者がでるなど大いに盛り上がっていくが、明治三十七年の百二回をもって突然終焉の日を迎える。その直接の原因はたみ子が秀栄の弟子である野沢竹朝の無作法に腹を立て、秀栄に文句を言ったのが原因とされている。
まずは騒動の原因を作った野沢竹朝について述べていく。
野沢竹朝
明治から昭和初期にかけて活躍した野沢竹朝は、本因坊秀哉が当主となった時代にも色々騒動を起こしているが、今回はその生い立ちと秀栄時代の頃までの人生を紹介していく。
野沢は明治十四年(一八八一)に島根県松江市で元出雲藩士の子として生まれ、六歳の時に碁を覚えると、明治二十三年、十歳のときに一家で名古屋へ移住しているが、この頃には囲碁の神童として知られる存在となっていたという。二十五年、十二歳の時に日本橋時代の方円社へ入塾するが、半年ほどで名古屋へ帰り、後に大阪の十五世井上田淵因碩に師事している。
独学で修業を重ね、明治二十九年、十六歳の頃には名古屋で高崎泰策(当時六段)に三子で打分けるほどになっていく。
その後、明治三十六年春、二十三歳の時に本因坊秀栄に入門、飛付き二段を与えられ、翌年には三段へ進んでいる。高田たみ子と騒動を起こしたのはこの頃の事らしい。
秀栄が亡くなった年である明治四十年(一九〇七)には四段となり、この年、『時事新報』囲碁新手合で十人抜き、二年後の『万朝報』勝ち抜き戦「碁戦」にて十二人抜きを達成、大正二年(一九一三)にも『時事新報』の勝ち抜き戦で五人抜きするなど活躍していき、「常勝将軍」「鬼将軍」の異名を取っている。
時事新報の矢野由次郎氏は野沢の性格について。著書「囲棋奇談」にて次のようにエピソードを交えて紹介している。
野澤は極めて天才肌の人物で、賞讃し親愛すべき美点もあるが、 礼儀をわきまえない欠点もないではなかった。かつて秀栄が呆れていたことがあった。
『野澤は確かに高段以上になり得る天分を備えているが、ただ彼がお客様でも何んでも人を人と思はぬ不作法には困る。いつぞや稽古に来たお客様が白扇を持っているのを見て、彼は真面目くさって「この白扇、何か一首書いて上げましょうか」と言い出した。これには私も赤面した』
『ヘェー野澤はソンナに字が上手なんですか』
『イヤ。それが金釘流(下手な字)と来てるから呆れたんだ』
突飛というか、無茶というか、藪から棒の怪気炎。この時ばかりは流石の秀栄も愕然として恐縮し、客は唖然として当惑し、竹朝は洒然として得意顔、正に是れ三すくみの体・・・
まだある。他の一例を挙げんか。彼、野澤が多分秀栄の名代であったろう。一日田中遜(田中光顕の養子)の友人の高輪御殿附近の某紳士の邸へ聘せられて、稽古に行ったことがあった。その時主人が碁が済んでから、謝礼として包金を出された。ところが、野澤竹朝は突如その包みを開いて、
『コンナ遠方まで稽古に来て、たった金二円五十錢なり(著者曰く、当時の相場では、二段の野澤に一夕二円半の謝礼は決して少くはない)ではとても下宿代も払えません。これは失礼ながら御返却致します』と言って突返してしまったという。主我的(利己的)――赤裸々――遠慮会釈のない所が彼の特色である。
四象会解散の経緯
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