囲碁史記 第72回 方円社の設立
明治十二年に村瀬秀甫や中川亀三郎が中心となって「方円社」が設立される。その設立までの経緯を紹介していく。
本因坊家相続を巡る駆け引き
まずは明治十一年に精神的に異常をきたし、翌年隠退した十五世本因坊秀悦の後継問題についてである。「坐隠談叢」には次のように掲載されている。
林秀栄は弟百三郎と協力救済の策を講じ、中川亀三郎を介して、先考の高足にして当時越後に客寓せる村瀬秀甫を秀悦の跡目となさんとせしに、亀三郎は其の十五世相続問題の時より、師家との不快を理由として之を拒み、且つ秀悦未だ不治の病と云ふべからず。今日事を急いで、斉臍の悔を後日に遺すも測るべからずとて、未だ決するに至らざる中、本因坊家の厄難、其の極に達したれば、秀栄意を決して、百三郎(秀元)を立てて跡目と為すに内決せり。時に突然、村瀬秀甫、師家を訪問せり。蓋し是れ亀三郎の招きしものにて、其の師家を訪ふ二十日程前、既に亀三郎の宅に着し、先づ在朝在野の紳士を訪ひ、然る後、漸く師家を訪ひし事、早くも秀栄の聞く所となり、為に秀栄は一時不快を感じたる矢先、亀三郎より前言を翻して秀甫を跡目となすの議出でたれば、益々快らず、遂に亀三郎と抗争の末、其の提議を却くるに至れり。
要するに林秀栄が村瀬秀甫の居場所を知る亀三郎を介して、秀甫に本因坊家継承を打診したが、亀三郎は秀策が亡くなり秀甫ではなく秀悦が跡目となった経緯を理由に秀甫は辞退すると伝えてきたので、やむを得ずまだ三段の弟百三郎を次期本因坊にすることにした。その後、秀栄は秀甫が東京へ帰っていることを知ったが、なかなか本因坊家を訪れず不快に思っていたところ、突然二人が訪れ本因坊家を継承すると言ってきたので、何を今さらと口論になったというのである。
なお、これには秀甫はもともと本因坊家を継ぐ意志があったが、亀三郎が後継打診の情報を秀甫に正しく伝えず話を潰したという説もある。その理由として、難航する話を自分が上手くまとめたという形にして秀甫の次を狙おうとしたという説や、秀甫を中心とする囲碁組織の設立を目論んでいたためという説がある。いずれにしても、本因坊家継承を断念した秀甫と亀三郎は「方円社」設立へ動いていくこととなる。
秀甫・亀三郎が本因坊家と話し合いを行った時期について、囲碁史研究家の林裕氏は明治十一年三月頃ではないかと推定している。この月に秀甫と亀三郎が対局した棋譜が残されていて、次に見られるのが一年後のためである。秀甫はこの後、一旦信越方面へ戻っている。
この時、百三郎は次期当主と決まるが、あくまで内定状態で公表はされていなかったようだ。秀悦も初めの内は症状が軽かったとみられ、打掛の対局を行った記録もある。当初は秀悦の回復具合を見極めていたと考えられる。
翌明治十二年一月の郵便報知新聞に、秀甫が信濃から東京に戻り中川亀三郎と対局、合わせて本因坊家後継者選定の会議が行われるという記事が掲載される。秀悦の症状が進み、この時期には隠退は間違いないという認識が世間に広がっていたのだろう。秀甫が戻ってきたのは、実際には囲碁研究会を主催してほしいという亀三郎の要請に基づくもので、秀甫は屋敷を引き払い東京に移っている。
「方円社」の設立
設立
明治十二年、東京へ戻った秀甫は亀三郎と数多く対局している。明治以降、それまであまり対局していなかった両者が頻繁に対局し始めたのは研究会を立ち上げる動きがあったためだろう。
以前も紹介したが、明治になり御城碁が廃止された棋士達は活躍の場を模索し始め、中川亀三郎ら若手棋士六人が研究会「六人会」を立ち上げた。そして、それを引き継いだ秀和が立ち上げた「三の日会」に多くの棋士が集まっていったが、やがて資金に行き詰まり、秀和が亡くなる前後に消滅している。
その後、「三の日会」を復活させた亀三郎、小林鉄次郎、高橋周徳らが構想を練り上げ、第一人者の秀甫を担ぎ出したといわれている。
こうして、「方円社」は、明治十二年四月二十日に発会する。発会式は神田花田町の相生亭である。
発会時の社員(メンバー)は十名で、秀悦を除く六人会のメンバー五人に、秀甫、土屋百三郎らが加わっている。
【方円社発会時の社員】
村瀬秀甫 七段 元本因坊家塾頭
中川亀三郎 六段 本因坊丈和三男
林秀栄 五段 林家当主、秀和次男
安井算英 五段 安井家当主
水谷四谷 五段 本因坊家外家・水谷家当主
小林鉄次郎 五段 井上門下
吉田半十郎 五段 本因坊門下
高橋周徳 五段 旗本
酒井安二郎 四段 吉田半十郎門下
土屋百三郎 三段 次期本因坊家当主、秀和三男
秀悦の後継を巡って秀甫・亀三郎と秀栄・百三郎は色々あったが、やはり家元の影響力は無視できないということで参加を呼び掛けたのだろう。秀栄らにしても、「六人会」「三の日会」の経験を通して研究会の必要性は十分認識していたと考えられる。なお、この時点で百三郎はまだ秀元を名乗っておらず、秀悦の代理という立場であったと考えられる。
また、井上松本因碩は参加していないが、秀栄は一旦和解したとはいえ、かつて昇段を因碩に反対され、そのわだかまりはまだ消えておらず、秀栄を納得させることのできる伊藤松和は前年に亡くなっていることから因碩への参加要請は見送られたようだ。
後に因碩も参加するようになるが、それがきっかけで方円社は分裂していく。それについては別の機会に紹介する。
方円社の由来
方円とは碁の別称のひとつで、方は方形で地を表し、円は丸形で天を表す。天地方円は古代中国の宇宙観、世界観を表現している。
それを会の名称とした名付け親は高橋周徳と吉田半十郎といわれている。
碁道保績趣意書と賛成者
方円社設立にあたり、全国へ「碁道保績趣意書」が配布されている。また、この頃、ようやく社会が安定してきたことを反映しているのか、趣意書に名を連ねた賛成者は百九名にも及んだ。
趣意書と賛成者の一部が「坐隠談叢」に記載されている。
前略有志諸君の庇蔭に依りて方圓社を設けしより再び斯道の盛隆に趨くの喜びを得たり是れ固より諸君の厚に由ると雖も亦先師の餘澤と云ふべし然らば則ち此道を維持し此業を保績し將來の名手を養成するは今日我輩の義務あり豊力を盡さヾるべけんや是に於て常費を節して以て子弟養育の資を補ひ其成器にて秘訣を傳授せんと欲す云々
【賛成者】
井上馨、山田顕義、山縣有朋、德大寺實則、大隈重信、後藤象二郎、東久世通禧、芳川顯正、鳥尾小彌太、岩崎彌太郎、澁澤榮一、日下部鳴鶴、成島柳北、沼間守一、栗本鋤雲、高島嘉右衛門、原喜三郎
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