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囲碁史記 第99回 方円社新会館建設と小林鉄次郎の逝去
方円社の再移転
方円社は明治二十二年十一月に日本橋へ移転したが、明治二十六年三月には神田区錦町へ再移転している。日本橋の会館は手狭であったというから、活動を充実させるにはもっと広い場所が必要だったのだろう。
日本橋の会館同様、小林鉄次郎が奔走して移転にこぎつけたという。
なお、資金は日本橋時代からの後援者である医者の川村某が出資している。
雁金準一は当時の方円社について、錦町に移ってからも、小林鉄次郎六段が理事として采配を振い、稽古には毎日五段以上一人、三段位の助手が一人、他に我々書生が出席していた。石井千治、田中政喜、田村嘉平は住み込みで、通い弟子には鴻原義太郎、伊沢厳吉両初段がいた。皆、二十才前後で和気あいあいとしていたと語っている。
錦町の会館の場所
方円社の新会館であるが、当時の刊行物で確認すると「神田区錦町三丁目十五番地」となっている。
大正元年地図を参考に場所を特定してみた。
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場所は現在の千代田区神田錦町3丁目5−1、9、7-2付近で、学士会館の南側で、神田税務署の西側あたりである。
この辺りはもともと東京大学があった場所で、神田神保町に古書店が多いのも東大の生徒や教師向けに販売していたなごりである。
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やがて、東大が本郷の方に移転していき、土地が分譲されたと思われる。
新会館は、建坪五十坪近い二階建てであり、秀甫亡き後も方円社は安定的に発展していくものと思われた。
新会館披露会
以前も少し触れたが、方円社の新会館完成を記念して、三月二十六日に披露会が開催されている。
本因坊秀栄も出席し、巌埼健造との記念対局が行われている。
巌埼は一時官僚となり囲碁界から離れていたが、東京勤務となってからは徐々に方円社の例会にも参加するようになり、明治二十年に六段へ昇段、明治二十五年には官を辞して方円社へ副社長として迎えられていた。
この時の対局は朝十時頃から始められ、午後四時頃に打ち掛けとなったが、僅か二十一手しか進んでおらず、巌埼が長考派であることを知って居た秀栄も、さすがに呆れていたと伝えられている。なお、後に巌埼はこの対局について、「どうせ打掛けになるのだから布石だけにして置いた。その間、碁の事ではなく、自宅に増築する稽古場の事を考えていた。」と語っていたそうだ。
なお、この対局の棋譜を「囲棋新報」に掲載した際に、秀栄が三級と掲載されたことに激怒し、これがきっかけで方円社が級位制から段位制に戻したという説があることは、すでに紹介したとおりである。
小林鉄次郎について
鉄次郎の功績
これまで述べてきたとおり、方円社にとって小林鉄次郎は欠くべきことのできない存在であった。
井上門下であった小林は、当主の井上松本因碩が家元の中で孤立していく中で、その代理的立場を務め、家元も参加して発会した方円社が分裂した際には、本来であれば井上家を継ぐことが出来たのかもしれないのに方円社に残って経営に尽力していく。
秀甫没後、方円社が神保町の会館を保てなくなると、芝兼房町の自宅に方円社の看板をかかげ、大変苦労して日本橋に会館を購入し、家族ぐるみで住みこんでいる。その間、「青年囲碁研究会」を組織して機関誌を発行し、大阪分社の社長にも就任している。そして、今回彼が尽力して神田錦町に新館が完成したのである。
秀甫の時代はともかく、中川亀三郎が社長となってからは、小林が実務を支えたからこそ方円社は発展を続けることが出来たといえる。
小林は温厚な性格で、ジョークを得意として人を笑わせていたという。
方円社と対立する本因坊秀栄ともウマが合った。方円社の役員でありながら、秀栄が主宰する囲棋奨励会にも参加し、秀栄と対局している。このまま行けば、一旦合流しながら、秀甫の死後再分裂した坊社は再び合流することも夢でなかったのかもしれない。
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