囲碁史記 第80回 官僚時代の巌埼健造
江戸時代、安井四天王として名を馳せた海老沢(巌埼)健造は、機を見るに敏で、明治維新を迎え世の中が激変する中で囲碁で食べていくのは難しいと感じ、一時囲碁界を去っていった。
今回は囲碁界を離れていた時期の健造について紹介していく。
囲碁界離脱
健造が囲碁界を離れたのは明治四年、二十二歳のときである。
ある日、元薩摩藩士の吉井友実の屋敷に村瀬秀甫、中川亀三郎、黒田俊節らと共に招かれ、そこで西郷隆盛、大久保利通、松方正義、得能良介等と出会い、碁を打ち話をする。
囲碁界の先行きに不安を感じていた健造は、この出会いをきっかけに囲碁界を離れることを決意したといわれ、大久保に仕え出世する道を選んでいる。なお、大久保は明治四年十一月から明治六年九月まで岩倉使節団として海外に出ている事から、実際に仕えたのはその後のことであろう。
ただ、大久保は唯一の趣味が囲碁と言われるほど囲碁好きである。いくら囲碁界を離れたからといっても健造が囲碁を全くしなくなったということではなく、大久保と健造が絡んだ囲碁の逸話も多く残されている。
大久保利通との囲碁の逸話
岩村通俊との対局
明治期に鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた男爵・岩村通俊が次のような話を残している。
岩村が佐賀の乱の平定後に鹿児島県令をしていた頃、当時内務卿であった大久保と大阪で逢う機会があり、どちらも劣らぬ碁好きであったことから対局することになった。
大久保より、やや強かった岩村は出鼻をくじこうと、わざと下手に出て「大久保さん相先ではとても及びますまいが、マア一つお願い致して見ましょう」とやった。
大久保は勿論、自分が勝つと思っていたが、結果は数番戦って、いずれも岩村の大勝となった。
翌日、大久保の使者がやってきて突然招かれた岩村が何事かと尋ねると、大久保は「岩村さん、昨日は思いがけなき大敗北、今日は拙者の随身が是非ともお手合致したいとのこと、好取組と存ずるゆえ、何卒一局戦って貰いたい」と語ったという。
岩村は主人が負けたために従者が出てくることは不思議なことではなく、高が知れた従者が自分より強いはずはあるまいと対局を承諾、ただし初手合であるため互先で始めることとした。
つかんだところ最初は岩村が黒番となり対局を開始。途中、観戦していた五代友厚が対手の従者に向かい「おまえそんな馬鹿な手を打っては、直ぐ岩村さんに負けてしまう」とか、「そんなマズイ手はないよ」などしきりに助言するものだから岩村は驚いたが、対局半ばまでは優勢であり楽勝と考えていた。ところが、半ば過ぎから段々と苦しめられていき、遂にはジゴにされてしまったという。二番目は岩村が白番で二目負けであった。
その負け方が実に奇妙であり、大久保をはじめ、何人かの観戦者が笑いを堪えているのを見て、ハット気がついた岩村が「大久保さん、僕の対手は誰なんだ」と尋ねたところ、大久保公は急に開き直って「遠からん者は音にも聞け、近 くば寄って目にも見よ、岩村さん貴君のお相手を勤めたは、鬼をも挫く剛の者、 音に聞えし海老沢健造先生でござる」と答えたという。
後日、再び大久保に逢った岩村が「大久保さん、先日は余りにヒドイじゃありませんか」というと、大笑して「岩村さん、復讐には助太刀という ことがあるではござらぬか」と言われたので返す言葉がなかったと語っている。
大阪での対局
岩村とのやりとりと同じような話が残されている。
健造が大久保に従い大阪へ行っていたある日、命により三左衛門という偽名で大阪の棋士と対局したことがあった。
この時、五代友厚の招待できていた女流棋士のお国(三段)と対局しているが、お国は名も知らぬ棋士に黒を取ることを納得せず、大久保が「三左は誠に強い者なので白を譲ってやってほしい」と説得し、不満ながらもようやく黒にて対局したという。健造はわざと定石を崩して乱戦に持ち込み勝利し、それを見ていた後に方円社三段となる漢学者の重野安繹が「この者定石を学ば、名手に至るべし」というのを、大久保はただ笑って聞いていたという。
他の棋士も次々と三左に敗れていくのを、独り終日黙って見ている者がいた。大坂碁界の中心的存在である吉原文之助である。
そして、吉原はいよいよ対局する番になったとき、三左に本名を明かすよう迫った。もし明かさないなら自分が指摘すると迫り健造が躊躇していたため、大久保が代わって彼が巌埼健造であることを明かしたという。
改めて三局対戦した二人は、健造の二勝一敗となった。
終局後、どうして分かったのかと健造が効いたところ、吉原は実力が明らかに五段の下にあらず、高段者で自分が面識ないのは健造のみだったからと答えたという。
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