囲碁史記 第69回 維新三傑と囲碁
江戸幕府の崩壊、および明治維新による社会の劇的変化にともない混乱していた社会は、明治十年(一八七七)に起こった最後の内戦「西南戦争」を経てようやく落ち着きを取り戻す。
家元を頂点とする囲碁界においては、幕府崩壊にともなう支援の打ち切りや、西洋文化流入により囲碁が衰退していくが、事態を打開するために関係者が尽力し、明治十二年(一八七九)に「方円社」が設立される。ただ、それは本因坊を中心とする家元と、維新の風に乗った方円社との対立の幕開けでもあった。
ところで、「方円社」設立までの低迷期にも、囲碁界の支援者はいた。特に討幕および明治維新で指導的役割を果たした西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允のいわゆる「維新の三傑」にも、それぞれ囲碁にまつわる話が残されている。
今回は、維新の三傑を中心とする「方円社」設立までの囲碁界の支援者について紹介していく。
大久保利通
大久保利通は、唯一の趣味が囲碁と言われるほどの囲碁の愛好家であり、息子で初代日本棋院総裁の牧野伸顕は、父は頭を使いすぎて疲れたときには碁を囲みリラックスしていたと語っている。
文政十三年八月十日(一八三〇)薩摩藩鹿児島城下の下級武士の家に生まれ、元服後に藩へ出仕。しかし嘉永三年(一八五〇)に起こった「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動に巻き込まれた父に連座し謹慎処分となる。
嘉永六年(一八五三)に復職し、新藩主となった島津斉彬に重用した西郷隆盛と共に藩政改革を志す「精忠組」の中心人物として活躍するが、幕閣に大きな影響力を持つ島津斉彬が安政五年(一八五八)に急逝すると事態は一変し、新藩主・島津茂久の実父として藩の実権を握った島津久光により盟友の西郷は遠島処分となってしまう。
島津久光へ囲碁を通じて取り入る
西郷に代わりに精忠組を率いる大久保は、島津久光に取り入るため、久光の趣味である囲碁を学ぶ。
久光の囲碁の師である吉祥院住職の乗願が精忠組の税所篤の兄であったことから、大久保は乗願に弟子入りして囲碁を学びながら国政に対する熱い思いを語ったという。なお、ある程度棋力がないと乗願に入門することも出来ないため、事前に妻らと猛特訓しとも伝えられる。
やがて大久保は、乗願を通じて久光へ拝謁し、以降側近として重用されていく。
若き日の囲碁の記述
大久保は島津久光へ取り入るまで、囲碁を全くしていなかった訳ではない。
鹿児島県歴史資料センター黎明館に保管されている重要文化財「大久保利通関係資料」の中にある大久保の日記には、嘉永元年(一八四八)正月四日に、「八ツ前牧野氏被訪碁打相企三番打、拙者勝負マケいたし候」と記述されている。午後二時前に牧野(喜平次)が屋敷を訪れ、囲碁の三番勝負を行ったが、負けてしまったという内容である。当時、大久保は十七歳であり、囲碁はしても強くはなかったと考えられる。
ちなみに牧野喜平次は大久保の従兄弟と同じ名で、次男・牧野伸顕は喜平次の養子となっている。喜平次は戊辰戦争における北越戦争で戦死し、当時六歳の伸顕は大久保家で育てられる。青山霊園にある牧野家の墓所は、鹿児島から改葬されたもので、「牧野家先祖之墓」には喜平次の名も刻まれている。
大久保は公武合体運動に尽力し、その後は倒幕運動へと転じていく。そして、復権を果たした西郷や岩倉具視、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らと共に王政復古、戊辰戦争を主導し明治政府樹立に大きく貢献していった。
明治に入り木戸孝允らと版籍奉還、廃藩置県を断行し中央集権体制の確立に尽力していった大久保は、明治四年(一八七一)に大蔵卿に就任。同年、政府は諸外国との不平等条約改正のため派遣された岩倉具視を団長とする岩倉使節団へは副使として参加し海外を歴訪している。
帰国後、参議となった大久保は、征韓論論争で朝鮮出兵に反対して征韓派の西郷や板垣退助らと対立し、西郷らは野に下っていった。
明治六年に初代内務卿へ就任した大久保は、政府の実権を握り学制や地租改正、徴兵令など「富国強兵」の政策を推進し、近代日本の基礎を築き上げていく。
しかし一部の有力政治家による急激な改革に各地の士族たちの不満が高まっていき『佐賀の乱』『神風連の乱』などが続発。
明治十年には盟友の西郷隆盛を盟主とする国内最後で最大規模の内戦、西南戦争が勃発し、大久保は京都にて政府軍を指揮し、これを鎮圧した。
大阪会議
西南戦争が起こる前の明治八年(一八七五)、征韓論争により下野した西郷に続き、台湾出兵をめぐる意見対立から長州閥トップの木戸孝允まで職を辞し帰郷している。政府の運営が大久保利通一人に委ねられるという緊急事態を憂慮した井上馨や伊藤博文は、大阪で実業家として活躍していた五代友厚の斡旋により一同を大阪に集めることとする。
同郷の大久保と五代は囲碁仲間であり、大阪滞在中、大久保は五代の屋敷に泊まり囲碁をしながら過ごしていたという。五代邸へは事前の話し合いのため木戸も訪れ、大久保と木戸も碁を囲んでいたと伝えられている。
板垣退助も参加し数回に渡り行われた「大阪会議」と呼ばれる会談は、話し合いが難航する中、懇親会で酒癖の悪い黒田清隆(第二代内閣総理大臣)が泥酔して暴れたため決裂寸前となってしまう。しかし、会談成功の重要性を認識する木戸は囲碁会を開催することで関係修復を図り、再開された会談によって木戸らの政界復帰が決まっている。囲碁によって危機が回避されたのである。
大久保と岩倉具視の対局
囲碁愛好家であった大隈重信は「大隈候一言一行」(大正十一年、早稲田大学出版部)の中で、大久保と岩倉具視の対局について次のように述べている。
「岩倉と大久保は両人ともなかなか(囲碁が)上手であった。どちらかと云うと大久保の方が少し上手であった。ところが大久保は激しやすい人であったので、岩倉はその呼吸を知っているから、対局中、常に大久保を怒らせて勝ちを取った。」
大久保については盟友の西郷隆盛でさえ切り捨てる冷徹な合理主義者というイメージがあるが、実は意外に激高しやすい性格で、対して公家社会で生き抜いてきた岩倉具視は相手の性格を見抜き対処する能力に長けていたことが分かる。
大隈はこの他、大久保は碁に負けるとイヤな顔をするけれども、決してその場では腹を立てず、家に帰って家人や書生に当り散らしたと語っている。碁に負けて帰ると、玄関から足音が違ったという評判があったそうだ。
なお、本因坊秀栄 は、大久保公の碁は珍しい品の好い碁であって、永年の間相手となったが、一度も手許の乱れたことはなかったと語っている。
女流棋士
大隈重信の大久保に関する記録の中にもう一つ次のような記録がある。
「何処へ往くにもお高と云う女碁打(三段)を連れて歩いた。我輩の宅などへ遊びに来るにも、先づお高を先き案内に寄越すと云う風である。」
名前が違うので別人と思うが、幕末から明治にかけて活躍した本因坊門下の吉田悦子という女流棋士がいる。当時の女性としては珍しく最終的に四段まで登り詰めた人物である。
尾張国中島郡中島村出身の吉田は、大垣藩家老の戸田三彌の知遇を得て、慶応四年(明治元年)に戸田に従い大阪へ出ると大久保利通ら諸公と対局、京では岩倉具視、西郷隆盛、後藤象二郎らも加わり度々碁会を行ったという。戸田は鳥羽伏見の戦いにおいて幕府軍に属していた大垣藩を新政府への恭順へと方針転換させた人物であり、吉田に囲碁好きの大久保らの相手をさせて接触を図ったと考えられる。
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