囲碁史記 第103回 雁金準一の本因坊門入り
明治二十五年八月、方円社の塾生として活躍していた田村保寿が実業家への転身を断念し、金玉均の紹介で本因坊秀栄と対局して門下となることを許される。それから十日ほど後、秀栄のもとに十三歳の少年が父親に連れられやってきて、秀栄と四子で対局している。後に田村保寿と本因坊の座をかけて争うこととなる雁金準一である。
今回は、雁金が本因坊門となったいきさつについて紹介する。
少年時代
雁金は明治十二年七月三十日、東京市本郷区森川町で生まれた。父は岩瀬匡助、母は貞子、雁金は母方の姓である。
五歳で碁を覚えた準一は、学業優先として父に囲碁を禁じられていたが密かに学び、明治十九年、八歳のときには本郷弓町にあった伊藤しげ (二段)の道場へ通い、二十二年、十一歳の頃に大沢銀次郎 (五段)、生田昌集 (三段)らの教えを受けている。生田は秀栄の妻満基子の父であり、そうした縁から秀栄と対局する機会に恵まれたのかもしれない。
当時、父は喘息を患っていたため生活は楽ではなく、雁金は坊門の河北耕之助の知人である国学者・小野述信(石斎)の援助を受けていたという。
その後、明治二十六年 、十五歳のときに 、当時日本橋通り二丁目にあった方円社へ通い、社長中川亀三郎に師事している。
この頃、雁金が箱根の旅館で湯治客の碁の相手をしていたといい、その時、小田原の別荘に滞在していた内閣総理大臣・伊藤博文の知遇を得て書生となっている。伊藤邸に住込み、囲碁愛好家である伊藤や来客の碁の相手をしていたという。
明治二十七年七月には方円社より初段を許される。
明治二十七年七月二十五日に日清戦争が勃発すると、戦争の指揮のため広島へ大本営が設置され明治天皇も広島入り、臨時の国会議事堂が建設されるなど、一時的に広島に首都機能が移転される。
当然、伊藤博文も広島に滞在しているが、雁金も伊藤に従って広島に入り、その後の下関条約調印のための下関入りにも同行。現地で要人らの囲碁の相手をし、「碁打小僧」として知られるようになる。
中川亀三郎の内弟子へ
明治二十九年、十八歳の時にようやく碁打ちとして自立することを決意し、伊藤邸を出て本郷西方町に稽古場を開いたが、ほどなく稽古場を閉じて、再び方円社へ帰っている。
方円社は明治二十六年に神田錦町へ新会館を建てたが、小林鉄次郎が亡くなると、たちまち維持できなくなり、当時は神田末広町へ移転していた。移転先は、中川の自宅である民家に方円社の看板を掛けたに過ぎないものであった。
この頃、雁金は方円社の塾生といっても 、実質的には中川の内弟子であった。
明治三十一年十一月、二十歳の雁金は二段に昇段、十二月には秀栄が主宰する四象会への参加を認められる。四象会の内規では参加資格は三段以上であったが、特別に認められたのだ。この時、秀栄夫妻は雁金の人柄を大変気に入ったようで、「中川はいい弟子を持ったものだ」と語っていたとも伝えられている。
同月、中川は社長を辞任している。中川が巌埼に社長就任を要請した際に雁金が同席していた件は、すでに紹介したとおりである。
その後、中川は高田たみ子の支援により神田五軒町へ隠宅を構えたので、雁金は正式に中川の内弟子となった。巌埼健造が三代目社長に就任し、方円社は三十二年一月に会館を巌埼の自宅である下谷区御徒町に移転したが、雁金は中川邸に残っている。
翌年に実業家の日下義雄に従い一ヶ月間韓国へ滞在し、現地の強豪と対局し「神童来」と話題になった。
本因坊秀栄門下へ
明治三十三年二月に三段へ昇段、同年五月から七月にかけて高田たみ子の主催で秀栄との十番碁が行われ、手合は二子から先二に直って、また二子に戻っている。秀栄の胸を借りたということなのだろう。同年十二月には四段に累進している。
その後、時事新報の敗退五人抜戦で二年連続、四人抜きし、明治三十七年に、ついに初の五人抜きを達成している。
明治三十六年九月十三日、雁金が二十五歳の時に師匠の中川亀三郎が没し、遺言により石井千治が養子となる。
新社長となった巌埼健造は剛腕で知られたが、そのワンマンぶりに社内でも不満が溜まっていき、雁金は中川千治、広瀬平次郎、岩佐銈とともに抗議を行っている。
記録によると、老獪な巌埼に他の三人が篭絡されていく中で、雁金は方円社退社を知らせる新聞広告を出し、これに対して巌埼が方円社により退社処分としたという新聞記事を掲載、さらに雁金が反論のため自主的な退社であることを広告にだすなどのやり取りが行われたという。方円社では「囲棋新報」第三〇一号にて正式に雁金の退社を公告している。
こうして明治三十八年三月、二十七歳の雁金は方円社を退社し、本因坊秀栄門下となった。秀栄の計らいにより入門と同時に五段に昇段している。
なお、雁金と共に騒動を起こした中川千治は、この二年後に方円社を飛び出し岩佐銈ら十数人とともに囲碁同志会を結成したが、大正元年(一九一二)に巌埼に請われて方円社へ復帰し、四代目社長に就任している。
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