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東京囲碁史散歩1 巣鴨本妙寺を訪ねる


 「東京囲碁史散歩」は、幕府開府以来日本の中心地として発展してきた東京(江戸)を、囲碁史をテーマに巡り歩くシリーズである。
 記念すべき初回は、歴代本因坊が眠る巣鴨の本妙寺を訪ねることとした。

1.本妙寺の歴史

 まず、本妙寺の歴史について整理しておこう。
 徳栄山本妙寺は新潟県三条市の本成寺を総本山とする法華宗(陣門流)の別院である。
 元亀二年(1517)創建で、徳川家康公が居城を岡崎(愛知県岡崎市)から遠州曳馬(浜松市)へ移したのを機に、家臣で岡崎近郊の法華宗・海雲山長福寺の檀徒であった久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、大久保忠俊、阿部忠政等により駿府に創建されている。開山は智存院日慶上人、山号の「徳栄山」は徳川家が栄えるようにという願いを込めてつけられたという。
 天正十八年(1590)には家康公の江戸入府にともない江戸へ移転。当初は江戸城清水御門内の礫川町にあったが、城域拡張にともない飯田町、牛込御門内、小石川へと移転を繰り返していった。
 寛永十三年(1636)に火災で焼失し、久世大和守広之の尽力によって本郷丸山へ再移転。約六千坪の境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿等を備え、十二の塔頭寺院と七堂伽藍が整備された大寺院として復興している。
 しかし、寺院完成から僅か数年後の明暦三年(1657)正月十八日に、「明暦の大火」(振袖火事)によって再び焼失し、三年後に客殿・庫裏、六年後には本堂が再建され復興を果たした。
 なお、火事は本妙寺が火元とされているが、大罪を犯しながら早期に復興を果たし、寛文七年(1667)には幕府から日蓮門下勝劣派の触頭に任ぜられるなど厚遇を受けていることから、一説には火元は老中の屋敷で、幕府の権威を守るため本妙寺が火元を引き受けたのではないかとも言われている。
 以後、明治四十一年(1908)に現在の巣鴨へ移転するまで本郷丸山にあり、「丸山様」とも称されてきた。
 本妙寺と本因坊家との関わりだが、歴代本因坊は当初、初代算砂が住職を務めた京都の寂光寺に葬られてきた。当時は有力な碁打ちは京都を拠点とし、定期的に江戸へ通っていたのである。
 しかし、四世道策の時代になると家元制度の確立等により拠点は江戸へと移り、元禄十五年三月二十六日(1702年4月22日)に道策が亡くなった際には遺言により本妙寺の塔頭感應院へ葬られている。これ以降、感應院は本因坊家の菩提寺となった。
 本妙寺は明治四十一年(1908)から三年がかりで丸山本郷から、現在の豊島区巣鴨五丁目へ移転するが、この時感應院は廃寺となり、墓所は本妙寺が引き継いでいる。

2.本妙寺へ向かう

JR巣鴨駅

 巣鴨の本妙寺を訪ねるため、久々にJR山手線の巣鴨駅に降り立った。巣鴨駅には都営地下鉄の三田線が乗り入れている。
 本妙寺は駅から900m離れた場所にあり、国道17号を北へ進み、徒歩で約10分の道のりである。なお、都電荒川線の新庚申塚駅からも、国道17号を南へ進み、約5分で行くことが出来る。
 本妙寺へは今まで何度かお参りしているが、数年ぶりの訪問となった。
 なお、これ以降紹介する写真は、基本的に今回の取材で撮影したものだが、日差し等の関係で観づらいものは過去の写真を使用しているのでご了承いただきたい。

3.境内の建物

本妙寺境内図

 著名人の墓が多い本妙寺では、参拝者が多く訪れるため、境内に墓所も含めた境内図が設置されている。また、墓地にも標柱が建てられていて、訪れる人が迷わないようになっていた。
 なお、ここ数年、境内の建物や墓地の改修工事が行われていて、いつ行ってもどこかで工事をしているという状態であったが、今回訪問したところ、工事も無事終わったようで、境内が以前と比べ、大分すっきりとしたように感じられた。

山門

山門

 本妙寺に着いて、まず最初に目にするのは山門である。
 平成二十七年に建て替えられた新しい門で、高麗門と呼ばれる形式である。
 高麗門とは二本の本柱(鏡柱)と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化し、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫をした門であり、豊臣秀吉の時代に城門として造られ始め、江戸時代以降には神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などでも多く築造されている。

留め金具(右)と碁石がデザインされた八双金物(左)

 本妙寺の門の金物には本妙寺の墓地に眠っている著名人ゆかりのあるモチーフが採用されている。
 扉の留め金具には、法華宗の宗紋の六本桜に、「遠山の金さん」こと遠山景元の桜吹雪にちなんだ桜色の石を埋め込んだデザインが採用されている。
 また、扉を補強する装飾金具である八双金物については、先端の二股が鋭い形で千葉周作の剣を現わし、『碁石』と同じ寸法の黒・白石を埋め込むことにより、本因坊の囲碁を表している。

本堂

本堂

 次に本堂を紹介する。
 現在の本堂は昭和三十五年(1960)年に建立された鉄筋コンクリート製の百一坪の建物である。
 明治四十一年(1908)頃に建設された移転当時の建物は、大正十二年(1923)に発生した関東大震災では大被害を受けたものの倒壊は免れているが、昭和二十年(1945)の東京大空襲によって焼失してしまった。
 その後、防空壕に仮安置していた三宝様と宗祖御尊像を、戦火を逃れた鐘楼を板で囲い仮本堂として祀り、翌昭和二十一年(1946)には十坪の仮本堂を建立、昭和二十七年(1952)には八十五坪の仮本堂兼庫裡が建立される。そして昭和三十五年(1960)になり、ようやく清水建設の施行により現在の本堂が建立されている。
 なお、平成二十七年(2015)に瓦の張替え、令和二年(2020)には外壁塗装工事が行われている。

鐘楼

鐘楼と鐘

 空襲により本堂焼失した直後には仮本堂として使用されていた鐘楼は、本郷丸山から移築された本妙寺で最も古い建造物である。建物には「井波彫刻」という高度な技術で造られた彫刻が用いられている。
 令和二年(2020)には大規模な改修工事が行われ、その際、欅・檜・松・杉など様々な木材を使い、何度も改修工事を行いながら現在まで受け継がれてきたことが確認された。

丈和も見たであろう鐘

 鐘楼に吊り下げられている鐘は天保二年(1831)に鐘鋳されたもので、こちらも本郷丸山から移設されたものである。
 天保二年といえば、本因坊丈和が「天保の内訌」と呼ばれる策略で名人碁所になった年であり、丈和も真新しい鐘を見ていたと思われる。

明暦の大火供養塔

明暦の大火供養塔

 本堂脇に「明暦の大火供養塔(振袖火事)」と書かれた標柱が建っている。中央の釈迦牟尼仏像と右の圭頭碑は明暦の大火供養塔で、左側の無縫塔は安政の大地震の供養塔である。

4.歴代本因坊の墓所

歴代本因坊の墓

 いよいよ境内墓地にある歴代本因坊の墓にお参りした。
 現在、本因坊家墓所は秀和の子孫(恐らく秀元の家系)である土屋家が管理していて、土屋家の墓石も建立されていた。土屋家の墓は二基あり、一つは秀元の子孫であることが分かっているが、もう一つが秀元、秀栄どちらの子孫なのか確認できていない。
 敷地は割と広いが、それについて囲碁界の支援者であった犬養毅の記録「犬養木堂傳」に次のようなエピソードが紹介されている。
 本妙寺が巣鴨へ移転することになり、秀元の子である土屋萬吉らが説明を聞きくため寺へ出向いた時のはなしである。
 萬吉は寺院や墓地が郊外へ移転することは東京市の方針でもありやむを得ないことだと考えていたが、説明する寺側のあまりにも高飛車で不遜な態度にすっかり腹を立ててしまったという。そもそも、本因坊家の墓所は史跡に指定されてもおかしくないもので、例え寺院が移転しても、そのまま現在地に残せばよいとまで考えたそうだ。
 その足で犬養を訪ねて事情を説明したところ、犬養は当時の尾崎市長へ電話して下さり、翌日、市長の了解を得たから、改めて本妙寺と交渉するようにとの連絡がきたという。
 そこで再び本妙寺へ出向いたところ、前回とは打って変わって低姿勢で、「初代本因坊算砂先生は同門の日蓮宗の出ということで、朝夕の供養を懇ろにしたいと思うが、このまま墓が移転しないと思うように出来ない」と頼み込まれ、ようやく萬吉も移転を承諾することとした。
 このような経緯があったためか、本因坊家墓所は当初提示された面積の倍以上の敷地が提供されたという。
 なお、移転時に現地で立会ったのは本因坊秀哉である。

説明板

 墓所の入口には日本棋院が設置している説明板があり、本因坊の由来や歴代本因坊の墓の配置、更に毎年、本因坊秀哉の命日である一月十八日に行われている「秀哉忌」について説明されていた。

墓石の配置図

 上記写真は現地説明板の墓石配置略図に、その他の判明している被葬者名を書き込んだものである。
 風化が激しく判別不能な墓石もあるが、判明しているものについて個別に紹介していく。

中央に建立された秀哉の墓石

本因坊秀哉の墓

 最初に墓所中央にある、二十一世本因坊秀哉の墓を紹介する。
 最期の世襲制本因坊となった秀哉が亡くなったのは、昭和15年(1940)1月18日。当然、本妙寺が巣鴨へ移転してきた時にこの墓石は無かった訳で、中央に建てられたのは最後の本因坊となったためであろう。
 墓石の文字は国家主義者で囲碁界の有力支援者としても知られた頭山満によるもので、頭山の名と印も刻まれていた。

秀哉の墓の側面

 墓石の側面には俗名「田村保寿」、法号「日温」の名が刻まれている。
 また、裏側には昭和22年に亡くなった秀哉の妻キヨの名と戒名が刻まれていた。

奥側の墓石

 次に奥にある歴代本因坊の墓について、向かって一番左側の本因坊丈和の墓から順番に紹介していく。
 一部の墓石には、合葬により複数の法名が刻まれているものもあり、すべてではないかもしれないが本郷丸山から巣鴨へ移転した際に墓所の面積が縮小されたため、墓石の数を減らしたものと考えられる。

本因坊丈和の墓

十二世本因坊丈和
  弘化4年10月10日(1847年11月17日)没
  本因坊丈和日竟霊位

本因坊烈元の墓

十世本因坊烈元
  文化5年12月6日(1809年1月21日)没
  本因坊烈元日實果位

秀和と伯元の墓

 以降、合葬の墓石については、刻まれた法名の右から順に紹介する。

十四世本因坊秀和
  明治6年(1873)7月2日没
  本因坊秀和日悦
七世本因坊伯元
  寛保元年2月11日(1741年3月27日)没
  本因坊伯元日浄
高岳院妙瀧日勢(詳細不明)

道知、道的、秀策の墓

四世跡目 本因坊道的
  元禄3年5月7日(1690年6月13日)
  清心院道的日勇果位
五世 本因坊道知
  享保12年6月10日(1727年7月28日)
  本因坊道知日深覺位
十四世跡目 本因坊秀策
  文久2年8月10日(1862年9月3日)
  妙壽院秀策日量果位
※当主には法名に本因坊が用いられているが、跡目については用いられていない。墓石は隣の四世道策の墓と引っ付く形で設置されているが、これは道知、道的が共に道策の後継者であったためであろうか。

本因坊道策の墓

 ○四世本因坊道策
   元禄15年3月26日(1702年4月22日)
   本因坊道策日忠覺位
※本妙寺(感應院)へ最初に葬られた道策の墓は奥側の真ん中に配置されていて、秀哉の墓が建立されるまでは、墓所内の中心であったことが分かる。

知伯、秀伯、丈策の墓

六世本因坊知伯
  享保18年8月20日(1733年9月27日)
  本因坊知伯日宥霊位
七世本因坊秀伯
  寛保元年2月11日(1741年3月27日)
  本因坊秀伯日了霊位
十三世本因坊丈策
  弘化4年8月18日(1847年9月27日)
  本因坊丈策日秀霊位
※知伯が亡くなったのは8月20日となっているが、実際には17日に急死していて、後継者(秀伯)が決定するまで生きているものとされていた。

察元、秀悦の墓

十五世本因坊秀悦
  明治23年(1890)8月23日
  本因坊秀悦日妙
九世本因坊察元
  天明8年1月26日(1788年3月3日)
  本因坊察元日義果位

秀甫、元丈の墓

十一世本因坊元丈
  天保3年10月28日(1832年11月20日)
  本因坊元丈日真霊位
十八世本因坊秀甫
  明治19年(1886)10月14日
  本因坊秀甫日壽果位
秀甫の妻
  本果院妙壽日唱大姉
※上台に秀甫の本名である村瀬と刻まれていることから、秀甫の墓に元丈を合葬したことが分かる。巣鴨への移転時の事だろう。
 また、秀甫の妻が亡くなったのは巣鴨へ移転した後の事である。

右側の墓

 向かって右側の墓を奥から順番に紹介していく。

秀栄の墓

十七世、十九世本因坊秀栄
  明治40年(1907)2月10日
  法号は日達

秀元の墓

十六世、二十世本因坊秀元
  大正6年(1917)9月5日
  法名は日存
※秀元の墓は兄の秀栄の墓より新しいものだが、早く風化している。

土屋家の墓
墓石に刻まれた萬吉と半七の名

土屋家の墓
 秀元の墓の隣りにある土屋家の墓は、本因坊秀元の子孫の墓である。
 秀元の子である土屋萬吉は、囲碁棋士かどうかは確認できていないが、本因坊家の墓所が巣鴨へ移転した際に寺と交渉していた人物である。
 萬吉の子である半七は、坂田栄男(二十三世本因坊栄寿)の師匠でもある女流棋士・増淵辰子の門下で二段まで進んだが、昭和27年(1952)に32歳で夭折している。
 半七の法名は「本果院通達日棋信士」、囲碁を意味する「棋」の字が入っている。
 土屋家の墓は、墓所入口横にもう一つあるが、平成になってから建立されたもので、詳細は分からない。

左側の墓

 次に墓所の向かって左側の墓について、被葬者が判明しているものだけ奥から紹介していく。

烈元の妻と葛野藤四郎の墓

 一番奥で丈和の墓の前にある墓石には三名の法名が刻まれている。
 その内の二名は十世本因坊烈元の妻と丈和の四男、葛野藤四郎である。

烈元の妻
  文政4年(1821)3月 
 持圓院妙開日運信女
葛野藤四郎(丈和の四男)
  安政5年9月5日(1858年10月11日)
  常得院遊戯信士

墓石に刻まれた「遊戯」の文字

※藤四郎は井上節山因碩や中川亀三郎の弟。詳細は不明だが法名に「遊戯」とあることから兄達と同じ棋士であった可能性もある。
 位号が信士ということは亡くなった時は15歳以上であり、没年に兄の亀三郎は数えで二十二歳であったことから、藤四郎は二十歳前後で亡くなっていると推定できる。
 余談であるが、藤四郎が亡くなった安政5年9月は、尊王攘夷派の梅田雲浜・橋本左内らが捕縛され安政の大獄が始まった時期である。
 もう一人の法名は童女となっているので六歳から十七歳までに亡くなった女性ということになる。ちなみに没年は文政3年で、当時の当主は元丈である。

丈和の妻、勢子と次男の葛野松次郎の墓

十二世本因坊丈和の妻、勢子
  慶応3年8月2日(1867年8月30日)
  遥成院妙見日等信尼
葛野松次郎
  明治10年1月23日
  忠達院常照日真信士
※ 勢子は秀和の跡目で娘婿の秀策が亡くなった際、村瀬秀甫が再跡目となることに反対した「勢子の権柄」で知られている。
  葛野松次郎は勢子の子で、異母兄の秀徹が還俗時に名乗った名を継いで二世葛野忠左エ門を襲名。囲碁棋士として活躍し三段となっている。

奥貫智策の墓

奥貫智策
  文化9年9月27日(1812年10月31日)
  秀徳院智策信士
※智策は正式に幕府へ届けられた記録は無いが本因坊元丈の跡目であったといわれている。
 本因坊家の墓所に墓がある事を考えると実質的に内定状態にあったと思われる。
 もう一人の法名が刻まれているが、誰のものか分からない。本因坊家の墓所内で自然石で造られた墓石はこれだけで、目を引く墓石である。

宮重策全の墓

宮重策全
 法名に策全の文字が見える墓石は、元丈の子で、丈策の弟である宮重策全の墓である。上台には「宮重」と刻まれている。

小岸壯二の墓

小岸壯二
  大正13年1月7日没
※ 秀哉門下で後継者として期待されていたが、関東大震災後の復興に奔走する中、疲労と腸チフスにより亡くなっている。
  小岸を失った秀哉のショックは大きく、秀哉が家元としての本因坊を終わらせ、日本棋院へ名跡を譲渡した理由の一つともいわれている。
 秀哉は小岸を跡目と同等に扱い本因坊家の墓所へ葬ったのだろう。

5.関宿藩久世家の墓所

関宿藩久世家の墓所

 本妙寺には関宿藩(千葉県野田市)久世家の墓所があるが、久世家歴代当主の中には囲碁界と大きな関りをもった人物が複数存在する。

初代 久世広之

久世広之の墓

 関宿藩初代の久世広之は、本妙寺を創建した徳川家の家臣の一人、久世広宣の三男で、若年寄、老中などを歴任している。
 初代井上因碩が延宝元年正月に京都で没すると、七月になってからであるが、本因坊道悦が当時老中であった久世広之の屋敷へ赴きこれを報告。門下の山崎道砂に跡を継がせるよう願い出ている。
 つまり、広之は家元井上家創設に関わった人物という事になる。
 また、延宝五年に本因坊道策が名人碁所就任の証文を授与された際、御礼に伺った久世広之より、証文の授与は幕府始めての事であるからと、特別に囲碁の愛好家であった神君家康の忌日を日付にしたことと、特例として酒井大老も加判したとの説明を受けたという伝承が残されている。

二代 久世重之

久世重之の墓

 広之の子で二代藩主の久世重之は家督相続後、寺社奉行、若年寄、老中と幕府の要職を歴任している。
 宝永二年(1705)に本因坊道知の後見人である井上道節因碩が、六段の安井仙角に対して御城碁で四段の道知と互先で対局するよう申し入れるが、仙角は、これを拒否して寺社奉行へ不服を申し立てた。これに対し道節は争碁を申し込み「宝永の争碁」が開始された。この時、道節は当時若年寄であった久世重之らにも働きかけ「先相先」(3局を下位者が2局先手で打つ)で打つ事が決定している。

七代 久世広周

久世広周の墓

 久世家で特に囲碁界との関りが知られているのが七代藩主の久世広周である。
 広周は旗本・大草高好の次男で、文政十三年(1830)に、第六代久世広運の末期養子となり家督を相続。寺社奉行等を歴任した後、嘉永四年(1851)に老中へ就任して阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たったが、大老・井伊直弼の「安政の大獄」による弾圧に反対したため罷免されている。その後、「桜田門外の変」で直弼が暗殺されると再び老中に就任し、公武合体政策を推進して政局の安定化に務めていった。
 広周は嘉永二年(1849)に井上節山因碩が門人を斬り殺し退隠した際に、かつて自分に仕えていた林門下の松本錦四郎を後継に推挙し受け入れさせている。
 また、松本因碩は安政六年(1859)に本因坊秀和が名人碁所就位を出願した際に、広周を通じて阻止に動いている。

6.その他の墓

 本妙寺境内にある、その他の墓を紹介する。

棋聖 天野宗歩

天野宗歩の墓(写真は墓所改修工事以前に撮影)

 本妙寺には江戸時代末期の将棋指しで棋聖と称された天野宗歩の墓がある。
 江戸時代、将棋の名人は家元の大橋、伊藤家のどちらかから選ぶ世襲制をとっていたため、天野は「実力十三段」と呼ばれながらも名人には推挙されず段位も七段止まりであった。ただ、天野は将棋は強かったが、一方で普段の素行は悪く酒色に溺れ賭将棋をしていたとも言われている。
 天野は後に「棋聖」と称して讃えられ、これが現在のタイトル戦「棋聖戦」の由来となっている。

  安政6年5月13日(1859年6月13日)没。
 玉用院名宗日歩居士

剣豪 千葉周作成政

千葉周作の墓

 江戸時代後期の剣豪で北辰一刀流の創始者である千葉周作成政は、神田於玉ヶ池に道場「玄武館」を構え、多くの門人を抱えていた。
 門下には浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新選組幹部の山南敬助など、幕末に活躍した人物も多く、弟の定吉の道場の塾頭であった坂本龍馬も稽古にきていた。
 北辰一刀流の指導は主に竹刀を使用。それまで剣術の習得まで8段階要していたのを3段階に簡素化し、その合理的な指導法は現代剣道に大きな影響を与えたと言われている。
 玄武館は後に「幕末江戸三大道場」と称され「技の千葉(玄武館)、力の斎藤(練兵館)、位の桃井(士学館)」と評されている。
 なお、千葉周作は囲碁の愛好家であったと伝えられている。また神田於玉ヶ池「玄武館」のすぐ近くには、伊藤松和が囲碁の道場を開いていた。

  安政2年12月10日(1856年1月17日)没

名奉行 遠山金四郎景元

景元の墓(左)と景元の書による碑(右)

 本妙寺には「名奉行遠山の金さん」で知られる旗本の遠山景元(通称:金四郎)の墓もある。
 現在では遠山金四郎といえば景元の事をいうが、江戸時代には同じ金四郎を名乗り、長崎奉行、勘定奉行などを歴任してロシアとの外交交渉でも活躍した父の遠山景晋の方が有名であったという。景晋の墓も墓所にある。
 景晋は旗本永井家から養子に入り家督を相続するが、皮肉なことに景元が生まれてからすぐに養父に実子が生まれたため景元の立場は微妙であった。
 その後、その実子が亡くなったため、景元が家督を継いで幕府へ出仕、天保十一年(1840)には北町奉行に就任している。水野忠邦による天保の改革が始まる前年の事であった。
 当初、景元は改革に協力的であったが、やがて極度な質素倹約の取り締まりを断行する南町奉行鳥居耀蔵と対立し、芝居小屋廃止の動きに対しては庶民の楽しみを奪ってはいけないと、各地にあった小屋を浅草猿若町へ移転させるだけの対応で済ませている。景元は青年期に家を出て放蕩生活を送っていたため、庶民の気持ちが良く理解できたのだろう。
 これに感謝した芝居関係者が「遠山の金さん」を上演するようになり、今日まで名奉行として語り継がれていくこととなる。実際に景元が名裁きを行ったという記録は残されていないものの、将軍徳川家慶が裁きぶりを賞賛している事から有能な人物であった事は間違いないようだ。
 景元は鳥居の策略により北町奉行を罷免されているが、二年後に鳥居が水野との対立で失脚すると南奉行として復権。同じ人物が北南の両奉行を歴任するのは異例の事であったという。
 遠山金四郎といえば桜吹雪の入れ墨が有名だが、実際に入れ墨があったのかは分かっていない。ただ、しきりに袖を気にしてめくりあがろうとすると下ろす癖があったといい、放蕩生活を送っていた時期に体に入れ墨を入れたのではないかとも言われている。
 余談だが、天保の改革で囲碁は直接禁止されていないが、店先の道に椅子を置いて碁を打つ行為は風紀を乱すとして禁じられていた。

7.終りに

 本妙寺には、この他にもいくつか著名人に墓が存在している。また、隣接する染井霊園や近隣の寺院にも著名人の墓が多数あり、その中には囲碁界と関わりのある人物も何人か存在している。
 今回は本妙寺のみ紹介したが、巣鴨には、とげぬき地蔵で有名な高岩寺や、「おばあちゃんの原宿」として知られる巣鴨地蔵通り商店街などもあり、合わせて巡ってみたらどうだろうか。 

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