見出し画像

囲碁史記 第92回 中川亀三郎時代の方円社


 維新という風潮に乗り発展してきた「方円社」は、その大黒柱であった村瀬秀甫の急逝により大きな転換期を迎えていた。
 今回は、秀甫の跡を継ぎ社長となった中川亀三郎の時代の方円社の変化について紹介していく。

方円社の移転

 設立以来、方円社は表神保町に会館を置き、例会は神田花田町の相生亭で行われてきた。会館に塾生が住込み修行していたことは、以前紹介したとおりである。
 ところが、中川亀三郎は社長に就任して間もなく表神保町から会館を移動している。
 その理由について、当時塾生だった本因坊秀哉は、著書「本因坊棋談」で次のように述べている。

方圓社がどうして神田から立退かなければならなくなったかと言ふと、想像するのに、經濟が保たなかったんだね。何しろ庭なども非常に広いし、大きな家だった。古い家だったから、手入れにだけでも相當金がかかる譯だったらう。いつそ買った方が、といふので確か私が十六の歳だ。何でも五百四十圓とかで手放した様に聞いてゐた。

 色々考え方があるが、当時の一円は現在の二万円くらいに相当するという話しもあるので、現在の感覚でいうと約一千万円で売却されたということであろう。

兼房町の仮事務所

 表神保町にある方円社の売却は決まったが、正式な移転先が決まらぬ中、方円社に寝泊りしていた塾生と高橋杵三郎は分かれて社員の家で暮らすこととなる。田村保寿は浅草の代地にあった中川亀三郎宅、後に初代北海道庁長官や農商務大臣などを歴任した岩村通俊邸に厄介になり、杉岡栄次郎は芝の兼房町けんぼうちょうにある小林鉄次郎邸で暮らすことになったと記録されている。亀三郎はもともと郊外の今戸に住んでいたが、社長となり業務に専念するため中心部に引っ越してきたのだろう。
 明治二十二年六月三十日付の「囲棋新報」は、発行所が「芝区兼房町十二番地」となっている。ここが小林鉄次郎の自宅であり、方円社はしばらく小林の自宅を仮事務所とすることになった。事務所といっても、普通の民家に看板をつけただけであったという。

小林鉄次郎邸跡(港区新橋2丁目13-8 新橋東和ビル)

 以前、兼房町にあった小林郎の場所を特定し、現地に行ったことがある。住所は現在の港区新橋2丁目の「新橋東和ビル」(西安料理 刀削麺・火鍋XI’ANシーアン 新橋店入居)のあたりである。

 方円社の移転にともない、例会は麹町区飯田町の苔香園たいこうえんに変更されている。
 苔香園は現在の九段下の俎板まないた橋よりにあった料亭で、高名な盆栽業者で宮内庁御用達であった木部米吉が経営していた。恐らく静かで庭も素晴らしい所だったのだろう、山県有朋や西園寺公望ら政府要人も利用していたと伝えられている。なお、苔香園は明治二十五年に芝公園に移転していて現存していない。
 方円社の例会は、明治二十二年六月から十月までの間、苔香園で行われていたが、十一月からは会館が日本橋へ引っ越し、そちらで開催されることとなる。

日本橋への移転

 方円社は、一時的に兼房町の小林鉄次郎邸を仮事務所としていたが、明治二十二年十一月になり、ようやく日本橋に新しい物件を見つけて移転している。
 物件を見つけたのは小林鉄次郎である。小林は兼房町の自宅を引払い、家族全員で日本橋の会館へ引っ越している。当時の方円社は小林により支えられていたという事が分る。

『囲棋等級録』明治二十四年

ここから先は

2,256字 / 3画像
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?