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囲碁史記 第28回 秋山仙朴と新撰碁経大全

秋山仙朴(小倉道喜)

 本因坊道知の時代に囲碁界で特筆すべき事件が起こった。秋山仙朴(小倉道喜)と著書『新撰碁経大全』にまつわる騒動である。
 秋山仙朴は『新撰碁経大全』、『古今當流新碁経』などの著作があるが、その記述内容のために絶版、戸締めの刑を受けた。戸締めの刑とは門を釘付けし謹慎させる刑罰である。
 まず人物について述べておく。小倉道喜は本因坊道悦に入門し、その後道策門下となる。道策とは二子で対局して一勝二敗、本因坊道知と先番で打ち分け白番で負け、上手(七段)に先相先の手合(六段)に進む。道策の死後は道知門下となるが、不品行により道悦、井上道節因碩から度々咎められていた。宝永四年(一七〇七)出奔して泉州堺に移り秋山正廣と改名、仙朴と号す。これにより碁家より破門されている。

『新撰碁経大全』絶版事件

新撰碁経大全
新撰碁経大全

 写本『記録』(上巻、一九四二写し、成田山仏教図書館荒木直躬文庫蔵)という本因坊家の資料の「一小倉道喜事秋山仙朴新碁経開板ニ付滅板願并例書之事」と題された部分に騒動の経緯が細かく掲載されている。原文は漢文で難解であるため割愛するが概要は次のとおりである。

 秋山仙朴は享保五年(一七二〇)に囲碁心得や定石について記した『新撰碁経大全』二巻を出版。享保十年に再版した際に前書において「今道策流學者予外無之、為後之書置者也」(道策流を学ぶ者は予の他にいない)と書いたのを、京都で隠居の身にあった道悦が目にし、これを不届きとして江戸の道知に処分を求めてきた。本因坊家当主の道知は道策の弟子であった名人因碩に育てられたが、その因碩はすでに亡くなり、真の道策流を学んだのはもはや自分だけだと言っている分けで、道知は他の家元の主だった者と協議し、碁所の立場上差し置き難しとして寺社奉行小出信濃守に訴え出て、町奉行を通じて同書は絶版、仙朴は十日間の戸締めに処せられた。

 享保十~十一年の秋山仙朴『新撰碁経大全』絶板一件については『坐隠談叢』にも詳しく掲載されている。「囲碁史年表」によれば、この当該書絶版と著者仙朴処分で落着した訴訟沙汰は、「これにより約三十年の間、碁書出版は家元の特権となる」という余波も招いている。
 これは『爛柯堂棋話』の「(寺社奉行)小出殿…向後右様の新板家元へ無届売買不仕様急度申付候、左様相心得候様にと被仰渡」に基づくと思われるが本訴訟以降、棋書出板が停滞したという事実がある。その「約三十年の間」(享保~宝暦期)は丁度、出版産業の急成長期にあたっていたが、出版に際し家元の許可が必要となった囲碁界にあっては逆に新板がほぼ絶えてしまうという結果を招いている。
 この絶版一件は後世に大きく影響したと考えられる。その停滞は家元の特権が新板を拒否したためなのだろうか。
 基礎資料は本因坊家の写本『記録』であり、『坐隠談叢』も事実関係はこれを典拠としている。厳密にいえば、初版の『談叢』(一九〇四、一九一〇)は『記録』の要約紹介であり、次の平凡社版(一九三三)ではそれに石井恕信の手記が加味されるが、いずれにしても碁家側資料のみで語られている。
 これに対し囲碁将棋史研究家小澤一徳氏は囲碁界以外の出版業界側の資料を調査し提供されている。
  

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