囲碁史記 第29回 御城碁について
御城碁の変遷
御城碁には、定例的な対局と、争碁を兼ねて行われる対局がある。経緯を見るに、安井家と本因坊家の碁所をめぐる確執が、御城碁の中に持ち込まれ、それにより御城碁の有り様も変化していった。
両家の確執は中村道碩の後継を巡り正保二年(一六四五)に行われた本因坊算悦と二世安井算知の争碁に始まり、寛文・延宝を経て宝永(一七〇四~一〇)へと続く。寛文八年(一六六八)、幕命により二世安井算知が碁所に就くと、それに異を唱える三世本因坊道悦との間で二十番争碁が打たれるが、内六局が御城碁を兼ねている。記録によると、その後半五局が城中で終わらず、月番老中邸に席を移して打ち継がれている。第十一局は土屋但馬守邸、第十七局は稲葉美濃守邸、第十八局は土屋但馬守邸、第十九局は久世大和守邸、第二十局は土屋但馬守邸に席を移している。
これが通常の御城碁でも踏襲され、城中で終わらず老中邸に打ち継ぐ形が半ば慣習化していく。それらの反省を踏まえ下打ち制が採用され、御城碁は事前に打っておき、当日は盤に並べて観せる儀式へ変わっていった。この事前の対局のことを囲碁は下打ち、揺棋は下指しという。また、内調べ、内打ち、内指しという用語が用いられることもがある。
御城碁下打ちについては『囲碁百科辞典』(林裕著・金園社)には、「下打ちは毎年十一月六日、四家家元協議の上、手合いを定めて届出て、十一日より十六日までに対局した。その席は各家元が輸番で受け持ち、十七日の御城碁までの六日間は一切の面会および外出を許さなかったといわれる。」とある。これは『坐隠談叢』や『御城碁譜』の記述を分かりやすく言い換えたもので囲碁史分野で唯一の下打ちに関する詳しい記述である。その後刊行された書には、下打ち期間中は外出できず、「碁打ちは親の死に目に会えない」と言われるようになる。
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