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囲碁史記 第77回 方円社設立後の家元の動き


 明治十二年四月に発会した囲碁研究会「方円社」は、十月には家元側との対立により分裂して社員は段位を剥奪される。しかし、村瀬秀甫を社長として再出発すると、独自の免状発行、級位制採用を行い、碁界第一人者の秀甫を擁する方円社は、維新という時代の風に乗り隆盛を極めていった。
 対して、家元側は、まだ三段の秀元が十六世本因坊を継承したこともあり劣勢に立たされていくことになる。
 今回は、この時期の各家元たちの動きについて見ていく。

秀和七年忌

 明治十三年十月十二日に明治六年七月二日に亡くなった本因坊秀和の七年忌が行われる。本来であれば前年の七月が七回忌であったが、当時は方円社内で家元と運営側の意見対立が顕在化してきた時期であり法要が延期されたのだろう。七回ではなく、七年忌と称しているのも時期がずれ込んだ影響と思われる。
 秀元はここで本因坊家の権威を見せつけたかったのかもしれないが、このとき開催された碁会はささやかなものであったという。なお、方円社は同月、秀甫の社長就任と独自で段位を発行することを東京府へ届け出ている。

林家断絶

 方円社設立当時、家元の中で最も影響力があったのが林秀栄である。当時、囲碁界の長老であった伊藤松和はすでに亡くなっていて、井上松本因碩は家元四家の中で孤立していた。秀栄は本因坊秀和の次男で秀元の兄であり、安井算英も修行時代に本因坊家道場で学んでいることから秀栄や秀元に対して理解があった。当時の家元側の動きは秀栄の考えに左右されていたともいえる状態であった。
 その秀栄は劣勢の家元側、特に本因坊家の立て直しをはかるため、林家を断絶して、本因坊家へ復籍して秀元に代わり十七世本因坊を継承するという行動に出る。その経緯を見ていくことにする。
 林家の養子となった秀栄は、元治元年(一八六四) 十一月に養父の十二世林柏栄門入が没したため慶応三年に家督を相続している。しかし、『坐隠談叢』によれば、未亡人喜美子との折合いが悪く別居していたそうで、いつの間にか戸主は喜美子となっており、秀栄へは家伝の碁器一個すら与えられなかったという。囲碁史研究家の林裕氏は、この戸主変更は明治五年の戸籍法制定の際に行われたのではないかと推定している。
 その喜美子が明治十五年十二月十日に五十三歳で没すると、秀栄は林家を離れて本因坊(土屋家)へ戻ることになる。時期は明治十六年あるいは十七年頃と考えられている。
 『坐隠談叢』には次のように記されている。

 実家本因坊家には、母兄の枕を並べて病にあるも、之を顧るに遑なく、後患前憂殆ど進退谷まりたり。茲に於て弟百三郎に本因坊を襲がしめ、稍小康を得たりと思ふ間もなく、外敵方円社の跋扈跳梁を極むる有様に、勢ひ是と戦ふの止むなきに至り、百三郎の秀元と俱に、苦戦力闘到らざるなきも、時勢は到底、両家に利あらず、空しく煩悩数年にして秀栄は自覚せり。家元の威厳は、到底技倆の秀抜に俟たざれば、外侮を禦ぐに足らざる事を。而も今の場合、楚歌を聞て刃を磨くに等しく、非常なる忍耐と困難は、素より覚悟せざる可らざるをも知了し、茲に大勇断を以て、愈々善後策を講ずる事とはなりたり。手段は即ち二家の勢力を一家に集中するにありて、秀元を隠せしめ、林家を犠牲に供し、自ら復籍して十七世本因坊となり、以て家名を保存し、外敵に当らんとするにあたり。時維れ明治十七年、林家遂に絶ゆ。

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