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東京囲碁史散歩2 本妙寺跡(本郷)を訪ねる


 「東京囲碁史散歩」の第二弾は、前回紹介した本因坊家菩提寺である巣鴨の本妙寺が、移転前にあったという本郷丸山時代の様子を「諸宗作事図帳」という資料をもとに調査し、跡地を訪れてみる事とした。

1.「諸宗作事図帳」とは

諸宗作事図帳

「諸宗作事図帳」は、寺社奉行作成の諸寺院境内坪数書上帳である。一部には寺院の間取りも記入されていて、「御府内配下寺社境内作事絵図連名帳」と題されたものもある。
 天保13年(1842)、翌14年、文久3年(1863)、明治2年(1869、浅草本願寺)、同8年(東叡山寛永寺)と複数年に渡り作成され、宗派ごとで全57冊(現在141冊に分冊)にまとめられている。現在、国立国会図書館ホームページ内のデジタルコレクションにて無料公開されている。
 まずは、「諸宗作事図帳」により、江戸時代の本妙寺および塔頭の感應院がどのような寺院であったのか調べることとした。

2.本妙寺と感應院について

現在の本妙寺(巣鴨)

 現在、本妙寺の歴史については、前回色々と説明したので、ここでは割愛するが、寛永13年(1636)に本郷丸山(文京区本郷5丁目)に移転して以降、明治41年(1908)に巣鴨へ移るまでこの地にあり、「丸山様」とも称されてきた。当然、「諸宗作事図帳」に記されているのは丸山本妙寺の事である。
 現在も本郷には本妙寺坂の名称など、当時を偲ぶ痕跡が残されている。
 そして、本因坊家の菩提寺は本妙寺の塔頭のひとつ、感應院であった。
 『東京市史稿』市街篇第五巻(昭和3年)によると、感應院は本妙寺開山日慶上人の隠寮として創建された寺院であるという。日慶上人は元和6年(1620)没なので、早い段階から本妙寺の塔頭として存在していたことになる。
 前回も説明したが、当初、本因坊家当主は初代算砂が住職を務めた京都の寂光寺に葬られてきたが、四世道策が遺言により感應院に葬られて以降、感應院が菩提寺となっている。感應院では本因坊家の法要が行われるなどしてきたが、明治期に廃寺となっている。

3.「諸宗作事図帳」における本妙寺の記述

(1)本妙寺の大きさ

 本妙寺及び感應院の記述は、「諸宗作事図帳」の「第六棚百三十九」に記載されている。
 初めに記された坪数などの記述内容は次のとおりである。 

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