囲碁史記 第67回 明治維新と囲碁界
慶長八年(一六〇三)に徳川家康が征夷大将軍に就任、以降江戸幕府は約二六四年にわたり続いてきたが、黒船来航などの外圧や尊王攘夷運動の高まりにより、ついに慶応三年(一八六七)に第十五代将軍徳川慶喜が大政を奉還し、その歴史に終止符を打つ。そして、慶応三年十二月九日に「王政復古の大号令」が発せられ明治新政府が樹立された。
囲碁愛好家であった徳川家康は、幕府成立後まもなく有力碁打ちを江戸へ呼び寄せ、禄を与えて庇護している。その後、御城碁の実施や家元四家を頂点とする囲碁界の支配体制が確立し囲碁は発展してきたが、幕府の崩壊により支援者を失った家元たちは突然自立を余儀なくされることとなり苦難の時代を迎えている。
維新直後の囲碁界
江戸時代末期は徐々に社会が不安定化していくが、囲碁界では天保の四傑や本因坊丈和、秀和、秀策らが登場し、大いに発展していた時期でもあった。しかし、明治を迎えた時期には、伊藤松和を除いた天保四傑の三人や秀策はすでに亡くなり代替わりが進んでいた。
当時の主な碁打ちの年齢は次のとおりである。
◎当主、〇跡目
(生年) (明治元年)
伊藤松和 享和元年(一八〇一) 六十八歲
◎本因坊秀和 文政三年(一八二〇) 四十九歲
高橋周德 文政五年(一八二二) 四十七歲
◎井上因碩 天保二年(一八三一) 三十八歲(松本因碩)
大塚亀太郎 天保二年(一八三一) 三十八歲(十四世井上因碩)
高橋杵三郎 天保七年(一八三六) 三十三歲
中川亀三郎 天保八年(一八三七) 三十二歲(本因坊丈和の三男)
村瀬秀甫 天保九年(一八三八) 三十一歲(十八世本因坊秀甫)
黒田俊節 天保十年(一八三九) 三十歲
海老沢健造 天保十三年(一八四二) 二十七歲(巌埼健造)
水谷縫次 弘化三年(一八四六) 二十三歲
◎安井算英 弘化四年(一八四七) 二十二歲
小林鉄次郎 嘉永元年(一八四八) 二十一歲
〇本因坊秀悦 嘉永三年(一八五〇) 十九歲
◎ 林秀栄 嘉永五年(一八五二) 十七歲(十七世本因坊秀栄)
土屋百三郎 安政元年(一八五四) 十五歲(十六世本因坊秀元)
本因坊秀和は当時四十九歲であり、現在の感覚でいうと随分若いように感じられるが、江戸時代の平均寿命は三十二~四十四歳といわれている。
実力的に考えても当時の囲碁界の構成は家元の秀和、因碩(松本)がいなくなれば、たちまち瓦解してしまう危険をはらんでいた。
家元の戸籍
明治政府は国の近代化のため様々な制度を整えていくが、明治四年には戸籍法が制定され翌年に施行されている。また、江戸時代には一般庶民が持つ事を禁じられていた名字も、明治に入ると任意で持つ事ができるようになり、後には義務化されていく。
囲碁家元の相続は血統ではなく実力が重視され、門下を中心に最も相応しい人物が家督を継承してきた。たとえ実子であっても家元、あるいは跡目にならなければ家元の姓を名乗ることはできなかった。
そうした中で、戸籍上の名字をどうするかという問題が生じたわけだが、当時の各家元の対応について「坐隠談叢」には次のように記されている。
本因坊、井上兩家は此亂離の間に於て秀和は本姓土屋に復り、因碩は松本錦四郎に復りて、全く本因坊、井上の稱をして唯單に碁院の名稱に止めたり。素より制度更改の際、別段の意志ありて、然かせしに非ざるべけれ共、同じ家元として、林、安井の兩家の各本姓を以て能く今日に連綿たるに比し、遺憾の念を禁ずる能はざる者あり。抑本因坊は第一世算砂寂光寺塔頭本因坊より出で、君命に依り之を姓としたる者、其死に臨み、却て碁所を中村道碩に譲りて、其神聖を保たしめ、家を十三才の算悦に譲りて本因坊の後を連綿たらしめ、三百年間井上家と共に徳川氏の碁院として今日に至りたる者にして、當時本因坊、井上共に其の姓たりしなり。されば、往年に於ける本因坊秀和は、明治に至りて土屋秀和藝名本因坊秀和となり、藝名井上因碩事本名松本錦四郎となり、恰も彼の俳優、落語家と同一の觀を爲さしむるに至れり。即ち、明治に至る迄存在したる本因坊、井上因碩の雨家は、戸籍上、明治に至り、此兩人の爲に壊せられたる者にして、全然兩人の私意に出たる者と云ざる可らず。而して、之が爲に斯界の宗家たる本因坊と、之に次ぐべき井上因碩とを、事實上に於て自然抹消せしめたる兩人の罪は、斯界の歴史上に於て明記せざるべからず。而も偶然とは云へ兩家に於ける祖先傳來の什寶も、亦此兩人の時代に於て皆無となりて、沿革變遷を知るべき材料を失ひたる事と、併せて秀和因碩の兩人は、遂に各祖先にして不孝の子となり、社界に対し極めて不實の者となり了る。左れば、後年に發生したる土屋秀元、田村保壽等の本因坊相續紛議及田淵米蔵の井上因碩相問題の如き、皆此枝葉の者にして、全然唯一藝名の取合に過ずして、各祖先の精神には根本的背戻し居る事を記憶し置さる可らざるなり。
「坐隠談叢」は本因坊秀和と井上松本因碩が伝統ある家元の姓を私物化し戸籍上の本姓としなかったため、その名が俳優や落語家と同じただの芸名に過ぎなくなり宗家は自然消滅したと、両者を厳しく断じている。そして、後に本因坊家や井上家で相続争いが起こったのも芸名の取り合いに過ぎないとしている。
ただ「坐隠談叢」は山田光(号は玉川)が執筆し、後に関西囲碁会(関西囲碁研究会)を創設する安藤如意が刊行しているが、山田光は十五世井上因碩(田淵米蔵)が大正六年(一九一七)に亡くなった後、門人の恵下田栄芳が独断で十六世井上因碩襲名を発表したことに反発し雁金準一を擁立していることから、こうした騒動が起きたのは松本因碩のせいだという私見で戸籍問題について記述したのだろう。
実際問題、本因坊家と井上家では当主は僧籍に入るため、建前上妻帯は禁止されていたといわれ、江戸時代に実子が跡を継いだ例はほとんど無い。これに対し安井家と林家は僧籍に入っていなかったことから実子が家督を継いだ事例が多く見られる。そのため、本因坊家と井上家では家を親から継ぐという意識が薄く、つながりの強い実家の姓を戸籍として選んだのだろう。
政府の支援打ち切り
政府の動き
囲碁界に対する明治政府の動きについて、昭和十九年に刊行された「碁道史談叢」(高部道平 著)に、次のように掲載されている。
維新、即ち明治と年が改まつて、家元四家や、其四家の各門下七段以上の有者が、無碌となつた。
それは三條實美、西郷隆盛、木戸孝允、といふ維新の元勳が碁所に来て、手合や其他の儀式を見せて貰い度いと言って来たので碁所では徳川幕府の従来通りを見せた。
それに対して西郷公は「一先づ碁所を廃す」其内「何んとか沙汰をする」と言った。之で無碌 となった次第である。
家元でさへ「圍碁稽古所」と云ふ小看板を出して生活を維持してゐる。三段などの生活難は極度であつた。
(中略)
西郷公が順調であつたなれば「何とか沙汰をする」が早く實現したであらう。然し西南戦争で惜くも公が歿した。
その様な事情で方圓社創立は明治十三年となった。創立の後援者は伊藤博文公 (當時伯爵)や其他の名士百三名であった。
こうして、新政府は家元への支援について徐々にではあるが打ち切っていく。
著者の高部道平は方円社に学んだ後、本因坊秀栄門下となった人物で、裨聖会、棋正社などの結成に深く関わり策士と呼ばれた人物である。
年齢的に考えて当時の様子を直接見聞きした訳ではないだろうが、師匠や先輩から当時の話を聞く機会があったのであろう。
当初囲碁界は、西郷の支援に期待していたようだが、西郷は西南戦争で亡くなりそれがかなわなかった。また、囲碁の愛好家として知られた大久保利通も暗殺されている。もし、西郷や大久保が亡くならず政権に留まっていたら、その後の囲碁界の歴史も違ったものになっていたかもしれない。支援者の協力により方円社が設立され、再び囲碁界が活性化していくまでかなりの期間を要すこととなる。
拝領屋敷移転問題
囲碁界の支援縮小を決定した明治政府は早速動き、明治二年に本所相生町にあった本因坊家の拝領屋敷を他の武士地と引替える旨の通達を出した。
これに対して秀和は、道策の時代から続く場所で引き続き暮らせるよう次のような願書を出している。
受領町屋敷引き継ぎ願ひ奉り候書付
元高 現米五十石五人扶持外十人扶持
行政官付三十一番組
石川 勘解由 触下 本因坊秀和
本所相生町二丁目、屋敷三百五十一坪九合七五才、
受領住宅罷り在り候処、此の度、武士地に御引き替え下
され候趣き仰せ出され候へども、従来住居仕り来り候地
所の儀に付き、転宅相成り候ては、諸事差し支へ難儀仕
り候間、相成るべき儀に御座候はば、何卒相当の地税上
納仕り、是迄の通り受領仰せ付けられ下し置かれ候やう
仕り度く、これによって絵図面相添へ、此の段願ひ上げ
奉り候。以上。
巳六月 本因坊秀和
東京府御役所
地税を納めるのでこれまで通りここで暮らすことを認めてほしいという内容である。
この時期、政府は東京の近代化のため多くの土地を接収していたが、そうした中で秀和の出した願書は聞き入れられた。これに対し囲碁史研究家の林裕氏は雑誌「棋道」で連載された「囲碁全史 明治囲碁史」の中で、政府高官の中に囲碁愛好家がいたためではないかと指摘し、その候補者として大久保利通の名をあげている。
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