矯正歯科にワイヤーを外しに行った話

ノリと勢いで始めた歯科矯正
歯にワイヤーをつけるあれ

おおよそ3年間の矯正期間を経て半年ほど前
満を持して矯正器具を外してきました

この矯正器具という奴が厄介な奴で
麺を食らえば引っかかる
米を食らえば器具と歯の間に詰まる
菜葉など食らおう物なら
笑顔を作るたび、口元にモザイクを
かけてもらわねばならなくなるほどの
口内トラブルメーカーなのです

器具側には全く悪気がないのに
こんな言い方してごめんな
懸命に歯を引っ込めてくれていたのに
悪者扱いしてごめんな

そんな感じなので器具が取れると
決まったその日
矯正歯科へ向かうその足取りは
とても軽やかでした
マスクの下で薄ら笑いを浮かべて
ちょっとスキップとかしてたかもしれない

受付を済ませて
尻が待合室のソファに触れるか否かの
タイミングで「山上さーん、どうぞー」と
受付のお姉さんの声
ここに来るたび、このタイミングで
名前を呼ぶお姉さん
合気道かなんかの達人に違いない

言われるがまま、3つ並んだ治療台の
真ん中の台へ寝そべる
目が眩むほどのライトの光が
僕の目元から口元へと位置調整が施され
先生が上から覗き込んできました
「はい、それじゃあ外していきますねー」
僕はただ、あんぐりと口を開け
よくわからない器具が
僕の口の中の何かを引っ掻くような音や
ワイヤーが切断される音なんかを
ぼんやりと聞きながら

(この前、買うのを躊躇ったあの服は
まだあの店に置いてあるだろうか)とか

(そろそろギターの弦を張り替えないとな)とか

(あいつに貸した漫画、返ってこないな)などと
考えていました

しばらくすると先生に
「はい、外れましたんで磨いていきますね」と
声をかけられました
先生は別の医師のおねえさんに選手交代をし
僕は一度、口の中を濯ぐよう促されました
可愛らしい紙コップに半分ほど入った水を
少し口に含んで、吐き出して
紙コップを定位置に戻すと
まだ全然水は残っているのに
自動で水が出る奴(タービンっていうらしい)が
律儀に水を注ぎ直していました

僕は再び台に寝そべりました
「はい、それでは磨いていきますねー」
と、おねえさん
磨く機械と水を噴射する機械を駆使しながら
歯が順番に磨かれていきました
僕は口を開けながら、また先刻のような
どうでもいい事に思いを馳せていました
そうしていれば知らないうちに
この工程も終わるだろう、そう思っていました

おねえさんが下の奥歯に到達した頃でした
もう少し大きく口を開けてくれと頼まれ
言われた通りにそうすると
おねえさんは俺の下顎に置いた手に
少し体重をかけてきたのでした
(いたたた、顎外れるって)と思いながらも
(奥の方は磨きづらいから仕方ないか
すぐ終わるだろうし、我慢しよう)と
しばらく耐える事にしました

しかし、磨く歯が奥に行けば行くほどに
かけられる体重が加速度的に増えていきます
俺ってこんなに口開くんだと思いました
体感、今ならビッグマックが3つは入る
おねえさん、ちょっと浮いてたんじゃないか

その最中、僕はもう一つ気づきたくない事象に
気がついたのでした
外れそうな顎に気を取られて
意識の外にいた事象、それは
口を開け過ぎて、嚥下がままならない事
おねえさんが左手に持つ、機械からは
耐えず少量の水が噴射され続けていました
本来、口の中に溜まった水を定期的に
それ専用の機械で吸い出す物だと思うのですが
こちら側がそうして欲しいタイミングと
おねえさん側がそうしたいタイミングが
恐ろしく噛み合っていない

溺れる
否、溺れている
まさか、ワイヤーを外しにきただけで
溺れる羽目になるとは思わなかった
それも、ビルの6階の一室で

遠のき始めた意識の中から、僕の脳みそが
ガノトトスの亜空間タックルに対応出来ず
クエスト失敗となり、悔し涙を流した
中学1年生の夏の記憶を蘇らせ始めた頃

鳴り止む機械音
「はい、口濯いでくださいねー」
どうやら、生きながらえたようでした
体を起こし、紙コップへと伸ばした手は
震えていました
タービンの馬鹿野郎が
しこたま水を注いだせいで
表面張力を起こしている紙コップを掴むと
手の震えで1/4ほど水がこぼれました
何はともあれ、終わった
この工程を乗り切った

「はい、じゃあ左の奥の方磨いていきますねー」

ただのインターバルだった

「はーい、口開けてくださーい」

(もう、勘弁してください)
出かかる言葉を必死で押さえつけました
うそ、「も」だけは小さくこぼれました
結果的に「口を開けろ」という注文に対して
「も」と意味不明な返答をする形になりました

ああ、次はビッグマックが何個入る口に
されてしまうのでしょうか...

僕の脳みそが
僕の学生時代を彩った不朽の大名作漫画
全35巻を泣く泣くBOOKOFFへ売りに行った際
寂しそうにトレーの上に乗る
薄汚れた野口英世一枚になり、戻ってきて
また一つ大人になった小学6年生の冬の
記憶を蘇らせ始めた頃
おねえさんが左奥を磨き終えました

満身創痍で僕は体を起こし、口を濯ぎました
相も変わらず、紙コップには
パンパンに水が注がれていました
もう、それすら愛おしく感じました

最後に治療前と治療後の変化を
写真に納めるという事で
先生が一眼レフを手に再び僕の前に現れました
カメラを構えて、僕の後ろに合図を送りました

「え」

「はい、少し引っ張りますねー」
と助手のおねえさん

「え」

直後、唇に銀色の何かを引っ掛けられ
左右に強く引っ張られました

いだだだだだ、裂ける...!!
こちらにも心の準備という物があるんだから
事前に何するか知らせてくれ
ただでさえ、磨く工程で相当消耗しているのに
それにしても、縦に引っ張ったり
横に引っ張ったり忙しいな!!
別の矯正受けないといけなくなりそうだな!!

先生が撮った写真をチェックする
もう一枚撮るらしい
「はい、じゃあ次は
自分で引っ張ってくださいねー」
とおねえさん

なんでだよ

後ろからぬっと手鏡が現れて
「えーっと、こことここに
引っ掛けていただいて...」
とおねえさんの説明が入りました

僕は何度も鏡の中の肌色のプレデターと
目が合ったのでした

自分で自分の口を引っ張っている様を
複数の人間に見守られながら
写真に撮られてるこの状況なんなんだよ
だけど、誰でもせいでもないのは
わかっていました

「これは、お前が始めた物語だろ」
レンズに反射する自分に言われた気がしました

その後、治療後に着けるマウスピースの
説明を受け、会計を済ませた僕は
「経過を見たいので、おおよそ1ヶ月後に
また来てください」と合気道の達人に
告げられ、ビルを後にしました

なんだか、へろへろに疲れ切った僕は
15分ほどの帰りの電車で眠りに落ちました

3年前、歯科矯正を決めた、あの日の夢から
車掌のアナウンスで目覚めました

最寄り過ぎとるやんけ

そこからどうやって家路に着いたかは
あまり記憶にありません

「1ヶ月後に来い」と言われたのに
あれから半年経つのですが
一度も行けてません
誰か「さっさと行ってこい」と
僕のケツを蹴り上げてください

行ったら行ったで
しばらく来なかった罰として
また顎を破壊されるかもしれませんが

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