日記 9/02 夜明けのはざま

 町田そのこ「夜明けのはざま」という小説を読んだ。

 メインに据えられているのは葬儀場に務める女性主人公で、始まりと終わりは彼女の一人称で進む。この作品は連作短編、それ以外のエピソードでは別の語り手が、彼らの近しい人の死を基にしてさまざまに思い感じる物語が叙述される。

 この小説、ラストだけ気に入らない。終わり良ければすべて良し、ということわざがあるみたいに、わたしはすべての悪しき小説は結末が悪いと思っている。その命題に従えば、なんでぇこんな小説とほっぽりだしていたのに、最後の最後まで読んで、まぁ……これもこれで素敵ですねえ……と作者の筆力にぶちのめされたのだった。

 舞台は九州、小説に通底しているのは男女差別の感覚で、わたしもネットで九州は男女差別がひどいとかよく目にする。作者自身は九州の産まれ、それでも誇張して書いているんだろうと思ってしまう。わたしは北海道の産まれ、ネットで少し探せば、アイヌ差別なんて問題に出くわす。そんなもの見たことも聞いたこともない身からすれば、寝耳に水だ。九州の男だって、お前らの地域は男女差別的だと言われたら、きっと同じ感覚になるだろう。どうせ内地の人間が現地を知らずに流言しているのだろうと思っている。原爆を落とすべきは東京だったな。震災下で朝鮮人を虐殺するクソみてぇな先祖の子孫が溢れている。他都市を批判するよりお前らの首長を引きずり下ろしやがれ。なにがアップデートだバカタレ。いやまあこっちの首長も目くそ鼻くそだけど、ともあれお前らの空想の倫理で実地の生活を脅かすな。そういうふうに田舎者の僻目で都会モンを忌んでいるわけである。何の話?

 町田そのこは、そういうわたしという読者の眼からすると、きれいにアップデートされた、今風の、無菌の作家だと思っていた。けれど違った。諦念と慈愛に満ちた、優しい小説を書く人だった。あなたはこういう世相に揉まれて生きてきたのかと。それは男女差の否応なしに変えられない感覚をきれいに抉っていた。だからそれは「夜明けのはざま」が、わたしの願っていない結末になってしまったのだと思う。でもアップデートされていないわたしという読者からしたら、もう少し別の道筋を語ってほしかったのだ。主人公の恋人が主人公の仕事を受け入れる選択があってほしかった。だいたい、わたしは別に葬儀関係者の職務に”穢”という感覚を覚えたことがないから、主人公を取り巻く環境に、いまいち着いていくことができなくて、やっぱり誇張しているでしょ、と思った。思いたかったのに、この小説の文章はいかにも真実めいていて、それはわたしが、「夜明けのはざま」第二章(二話)所収『私が愛したかった男』のエピソードに、心を奪われたからに他ならない。

『私が愛したかった男』の語り手はシングルマザー、娘が幼いころに駄目な夫と別れ、女手一つで子どもを大学生まで育ててきた女性が物語る。わたしじゃん、と思った。シングルマザーの家庭に育った一人っ子のわたし。両親ともに似ている。駄目な父親と、子どもにかける情熱の溢れる母親。語り手は、別れた旦那の恋人の葬儀をいっしょにしてくれないかと頼まれる。葬儀ひとつさえまともに執り行えない昔の男に苛立ちながら、語り手は徐々にかつての関係を自省していく……。葬儀中に、ふいに娘が乱入する場面があって、わたしはとても気に入った。

「ママ、ほんとうに馬鹿じゃない? なんで馬鹿みたいに式を手伝ってんの?」
 天音は「信じられない、信じられない!」と地団太を踏んで「甘いんだよ、ママは」と私を指差した。
「どのツラ下げて頼ってきてるんだって言わなきゃだめじゃん。馬鹿にすんなって言わなきゃだめじゃん。ママは恋人ひとり作らないで、誰にも甘えずにずーっとあたしを育ててくれた。どんなときもあたしに手を抜かないでいてくれた。だからママは、このひとにお前もひとりでやれって言わなきゃだめじゃん!」

 わたしはまるで自分が言っているかみたいにこの文節を読んだ。わたしは作中の娘である天音よりすこし年を重ねて、父親側の気持ちも、そしてまた母親側の気持ちもわかってしまっていた。わかっていたからこそ、天音の叫びの青さがとてもきれいな色をしていて、何度も音読した。もし「夜明けのはざま」が実写化されるときにはこの場面をわたしにやらせてほしいと思った。これはわたしの物語だ。そうまで感ぜられた。終わりこそ納得いかなかったけれども、それ以外の部分が、あまりに強く心を打ったので、「夜明けのはざま」はきっと、わたしのなかで大切な小説なのだと思う。

 日記。

 蕎麦屋に行っておいしい定食を食べた。素晴らしい小説を読んだ。良い一日だった。



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