ドント・ラン
――Don’t run!!
はるか後ろで、ティンが叫ぶのが聞こえる。
スピードを落とそうか? でもそれは無理な相談だ。僕はいま、ウォーキング・ハイなのだから…。
この瞬間、そしてまた次の一瞬、地形に対してどう対応するのか、最善のやり方はこの体が知っていた。そして心と体はいっせいに声をあわせて、駆け抜けろ!と僕に命令している。
みんなにはあとで謝ろう。と言い訳。そしてウォーカー・パスに至る林のなかをどこまでも駆けおりた。自分が一匹のいきものであることを思いきり味わって、かがやくような喜びを胸いっぱいに吸い込みながら。
ウォーキング・ハイが、どんなきっかけで起こるのかはよくわからない。自分のコンディション、トレイルの起伏、荷物の重さ、景色、イヤホンから流れた音楽。いろんな要素が組み合わさって、あるとき突然、まるでセイルいっぱいにすばらしい風を受けて走る帆船のように、心と体が解き放たれたことに気付く。
突っ走れという欲求にあらがうことは難しい。動くための意志が、身体の中からあふれてくる。湧きあがる感覚に身をまかせれば、疲労を忘れ、集中力を感じ、潤滑油が全身にいきわたったかのごとく、滑らかにギアが上がっていく。それはとても自然な感じだ。β・エンドルフィンが関係しているという。文字通りハイになっているわけか。
スーパーマリオのゲームで、スターを取ると無敵状態になるが、ちょっとあれと似ている気がする。誰しも、スターを取ったらダッシュしてしまう。そしてつまり、この特別な瞬間を逃す手はないと感じるんじゃないかな…。
ウォーカー・パスへの道のりは、南カリフォルニアの中でも一番というぐらい、水場の距離が離れたところだった。
ハイウェイとトレイルの交差点にはトレイル・エンジェルが運んでくれるウォーター・キャッシュがある。でも、キャッシュ頼みのプランを避けたくて、僕はこのとき7ℓの水を背負っていた。
ティンは僕と同じ理由で6ℓ。スーザン、ホリィの女性陣は「水はぜったいある。」と言って、たぶん彼の半分も持っていなかった。
結局ウォーター・キャッシュにはたくさんの水がストックされていたし、もしなかったとしてもオフトレイルを行けばどうにか水を手にすることもできただろう。でもこうしていろいろ思い出してみると、心配性の男子2人と、真反対に大胆な女子2人の、なかなか面白いチームだったなと感じられて懐かしい。
トレイルを駆けながら、バックパックの重みはちっとも感じなかった。息もあがらなかった。なんだかんだ言ってみんなも少し後ろについてきているのがわかって、僕は嬉しくてさらにスピードを上げていった。
たどり着いたウォーター・キャッシュの前でみんなを待っていたが、その後どうやって謝ったのかをよく憶えていない。