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夕暮れと生命力

都内から田舎に引っ越して、東京に出向く機会も減った。


コロナ禍を機に実家に帰り、そこから仕事をしている。
それまで、私は4年間、東京で命を燃やしていた。仕事に明け暮れてた4年間だった。それは私にとって小さい頃から憧れていた姿で、都内に出て仕事をしたいという小さな夢を叶えた形だった。

しかし、コロナ禍直前に仕事を辞め、ロックダウンにぶつかり不本意な形で、実家近くに帰る決断をした。惨めな思いをして帰った地元は、暖かく私を出迎えてくれた。あの頃は住む街だった東京は、今は目的を持って訪ねる街になっている。

友人とお茶するために、買い物をするために、○○のために、と名目をつけて、私は電車に乗って東京へと上京する。




近頃、たまたまなかなか会えない友人と東京駅で会う用事があった。
その日はお茶をして、さまざまな話をした。ちょうど外は快晴で、日差しと温度の感じがこのまま永遠に続いてほしいぐらいに、バランスが釣り合っていた。友人はこの後用事があると、夕方には東京を離れた。


普段ならそのまま帰宅するのだが、あまりにも離れるのには惜しい天気だった。雲ひとつない快晴と、肌の撫ぜる優しい風。初夏の気配を感じさせながらも、春の優しさを持ち合わせる。そんな気候に名残惜しさを感じた私は、ひとり日が暮れるまで、東京で過ごすことにした。


友人と会う場所となっていた都内で、目的もなく一人彷徨うことは、”部外者”になってしまった私にとっては特別な機会だ。ウキウキした心を持て余しながらあてもなく道を歩く。ビル群に色づいた日差しが反射している。スマホで確認する。あと1時間で日が沈む。この天気であれば、きっと見れるはずだ。

都心の夕焼けが見たい、そう思った。


近隣のスタバで暇を潰し、日没時間の20分前あたりに外にでる。外は斜陽に彩られ、オレンジ色に染まっていた。道ゆく人も、ビル群も、絶え間なく走る車も、全てが等しく夕日を浴びキラキラと反射している。


なぜか、私はこの光景に生命力を感じた。


自分の住んでいる田舎でも当たり前のように日は沈むのに、都会の夕暮れは少し異なる。前者が静であれば、後者が動だろう。

刻一刻と変わりゆくのは夕日の色だけではなく、それ以外の全ての景色もだ。車も人も、瞬きのたびに通りすぎていく。二度と同じ瞬間は訪れない。都会の景色は、瞬く間に移り変わる。その全てに人が関わっている。そこを通り過ぎる高級車は中で誰かが運転していて、今横切った人は、スポーツウェアを着て、皇居に続く道を一定のスピードでランニングしている。空の色を反射したあのビルの中では、仕事に精をだしている人がいるかもしれない。見える限りが動いている。人々が息づいている。

そんなことを頭の中で思いながら、ぼうっと道端に佇む私の目の前で、数多の車と人が通り過ぎていった。


ふと、この瞬間を切り取りたくて、写真を撮った。生命力と夕暮れ。なんて勝手なタイトル呟いてシャッターを押す。



目の前にある多数の生命を輝かせている太陽は、ゆっくりと、でも確実に沈んでいき、辺りは夜に近づいていった。
自由に考えることができる時間があることに、幸せを感じた。誰かといると、こんな感情には行きつかなかった。一人であてもなくいる東京だからこそ、体感できた感覚だ。

ひとりで東京にいるからこそ、感傷に浸れる自由。

たまには「目的もなく」ここにくるのもいいかもしれない。
優しかった風が、いつの間にか冷ややかな色味を持って私の側を走っていく。私は、どうも名残惜しくてギリギリまで地平線に残る茜色を見つめていた。


都心の暮れゆく夕日と連なる車たち

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