『どこにいても、私は私らしく』【番外編】:書籍化に向けて 著者・成川彩さんへのインタビュー
◆連載初回の記事では、映画漬けの日々を送ろうと韓国に3度目の留学をされたことが書かれていました。
韓国映画についてもっと知りたいと思うきっかけになった作品、また一番好きな韓国映画は何ですか?
――最初に留学した2002年、いくつかきっかけになる作品はありましたが、衝撃の大きさで言うとイ・チャンドン監督の『オアシス』でした。映画館を出ながら、すごい映画を見たと思って興奮していたのを覚えています。
ムン・ソリの演じた脳性麻痺のコンジュが車いすから立ち上がるシーンなど、リアルとファンタジーが切なく交差し、深い余韻が残りました。『オアシス』がきっかけで、イ・チャンドン監督の前作であり、主演も同じソル・ギョング、ムン・ソリの『ペパーミント・キャンディー』(2000)を見て、さらに衝撃を受け、これが今も一番好きな映画です。冒頭で自殺する男性の20年を遡っていくなかで、1980年の光州事件で人生の歯車が狂いだしたことが分かり、その前年の純粋無垢な主人公2人の出会いで終わる映画でしたが、ある意味韓国の現代史の縮図のような映画でもありました。
好きな映画はたくさんありますが、自分にとっての記念碑的な映画という意味で、一つ選ぶ時には『ペパーミント・キャンディー』と答えています。
◆韓国で「私のままで生きよう」「頑張らずに生きよう」というようなエッセイなどがよく売れるようになって以降、スペック重視や受験に対する考え方に変化が出てきた様子はありますか?
また小確幸を味わうことを重視する人はさらに増えたと感じますか?
――韓国は日本に比べて世代間ギャップが大きいと感じます。それは短い間に急速に経済発展したことや1980年代に進んだ民主化など社会が大きく変化したことと関係があると思います。私(1982年生まれ)と同世代や私より若い世代は小確幸を味わうことを重視する人が増えているように感じます。結婚や出産が当たり前でなくなってきて、自分の好きなことに時間を使う人が多いようです。
私に対する視線にその差を感じます。同世代や若い世代は大手新聞社を辞めて留学しながらフリーランスで記者や通訳・翻訳の仕事をしている私を肯定的に見てくれる人が多いですが、上の世代からは「なぜ朝日新聞を辞めたのか」「早く子どもを産んだ方がいい」「だんなと一緒に暮らすべきだ」と、理解し難いというニュアンスで言われることが多く、世代によって違うなあと感じます。
◆オリジナル記事を新聞連載していた頃は、日本製品の不買運動等が盛んだった時期だと思います。現在の状況はどうですか?
―― 日本製品不買運動が広まるなかで、韓国の新聞に日本人が日本のことを書くこと自体、気が引けるような雰囲気でした。連載打ち切りになるのではと思っていましたが、実際はそういう話は一切出ず、今も連載が続いています。
不買運動のきっかけとなった輸出規制から3年が経って、今は不買運動はおさまった雰囲気です。寿司や豚カツなど日本料理店が人気を取り戻し、一時がらがらになっていたユニクロにも買い物客が戻っています。時間が経って感情がおさまっただけでなく、コロナの影響で日本に行きたくても行けなくなったこと、中韓関係が悪化したことが主な要因だと思っています。
「今は反日よりも反中感情が高まっている」と言う人が多く、それはそれでモヤモヤしますが、「早く日本に行きたい!」という声をよく聞くようになったのには希望を感じます。
◆不買運動と日本人に対するネガティブ感情は連動していたのでしょうか。
例えば、日本の製品やコンサートなどに対する否定的感情はあるが、日本人の友人がいる人は友人との仲はこれまで通り維持する人が多かったのか、それとも実は友情にも溝ができたという方が多かったのでしょうか。
また、不買運動を目の当たりにして居心地が悪く感じたとありましたが、「当然のことだ」「仕方ない」というように韓国人の感情を受け入れる、理解するという感覚にはやはりなれないものでしょうか。
――私個人の経験で言えば、韓国の友人の中で私への態度が変わる人はいませんでした。でも、そういう友人たちの中でも不買運動に参加し、私にも堂々とそのことを話す人はたくさんいました。日本人が憎いわけでなく、輸出規制に対する抗議の姿勢を表現する手段だったと思います。私自身、日韓の歴史問題を輸出規制という経済分野に持ち込んだ日本政府のやり方は批判すべきものだと思っています。韓国の人たちが怒るのは当たり前です。
ただ、不買運動によって被害を受ける人の多くが日韓にかかわって仕事をしている人たちで、矛先が間違っていると思いました。そのことを感情的にならないようにどう伝えるのか、悩みました。
◆韓国での生活も長くなられましたが、時折日本に帰国して感じる変化はありますか?(日本の社会についてやご自身の心境など)
また、日本で暮らしていた頃と比べてご自身が変化したと思う部分はありますか?
――日本に戻ると、アナログの良さも悪さも感じます。韓国は何でもデジタル化してしまって、特に外国人を想定せずにオンラインでしかアクセスできない仕組みを作ってしまうことも多く、かえってわずらわしい思いをすることもあります。日本はデジタル化への移行が韓国に比べると遅れているという面もありますが、お年寄りも含め、デジタルに対応できない人への配慮もあるように感じます。
韓国はデジタル化に限らず何でもパルリパルリ(早く早く)文化なので、韓国にいるとせわしない感じがしますが、日本に戻ると逆に自分が短気になったような気がします。韓国では喜怒哀楽の感情をストレートに表現することが多く、私もそれにすっかり慣れてしまったので、日本に戻っている間は意図せず誰かを傷つけることのないよう、気を付けないとと思うこともあります。
◆現在は具体的にどのような研究をされていますか?
――映画を中心に日韓の文化交流について研究しています。私自身が日韓の文化交流に携わりながら、先駆者たちはどのように交流を始め、つないできたのだろうと気になって調べ始めました。
例えば私が2020年から出演しているKBS WORLD Radioの日本語番組「玄海灘に立つ虹」は1965年に放送が始まりました。65年といえば日韓国交正常化の年で、日韓友好の意味合いが強かったようです。
韓国映画が毎年日本で公開されるようになったのは88年のソウルオリンピックの年から(66年に2本公開されたことはありましたが、その後88年まで公開されず)で、在日コリアンが祖国応援の気持ちも込めて韓国映画を日本へ紹介するという動きでもありました。政治的な日韓関係と日韓の文化交流は影響し合っていると思いますが、今後のより良い方向性を考える上でも、先輩方の努力の軌跡を整理し、記録したいという気持ちです。
◆連載を読んでくださっている皆さんへのメッセージをお願いします。
私にとって外国語の韓国語で書いたものを母語の日本語に訳すという作業そのものは難しくありませんでしたが、そもそも中央日報の読者である韓国の人たちに向けてその時々の出来事を交えながら書いたコラムで、それを日本の読者に向けて、それも最初に新聞紙面に出た時から時間が経った状態で、というのは訳しながら難しいなと感じました。
翻訳とは言えないほど書き直したものもあり、合間合間に新たに書き下ろしたものもいくつかあります。
もともとのコラムを書いた時期は非常に日韓関係が険悪だった時期で、さらにこの連載を始めてからはコロナ禍で日韓の行き来が難しくなり、明るく楽しく日韓の違いを楽しむというわけにもいかない時期もありました。読者の皆さんにとっても負担に感じられる内容もあったかもしれません。私自身が日韓の様々な問題に直面しながら、それをまた一緒に考えてもらいたいなという思いもありました。
これは「クオンの本のたね」の連載なので、これから本として出版する予定です。まだ翻訳が終わっていないものも一部あり、もう少し時間がかかりますが、出版されたらまた手に取ってお読みいただけると幸いです。
連載にお付き合いいただき、ありがとうございました!
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成川彩(なりかわ・あや)
韓国在住映画ライター。ソウルの東国大学映画映像学科修士課程修了。2008~2017年、朝日新聞記者として文化を中心に取材。KBS WORLD Radioの日本語番組「玄海灘に立つ虹」レギュラー出演中。現在、韓国の中央日報や朝日新聞GLOBEをはじめ、日韓の様々なメディアで執筆。
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