見出し画像

Sky❗️〜毎日1回空を見上げよう!@大連④『旅順口区⛵️~旅順-1』


Sky❗️〜 每天仰望一次天空!@大连④『旅顺口区⛵~旅顺-1』

<旅順口区>

1.概要

📍旅順を訪ねて:タクシーで巡る歴史の旅


今回は、中国遼寧省の歴史的な場所「旅順」についてお話しします。一般的に旅順は「旅順口区」という一つのエリアとして知られています

📍旅順ってどんなところ?

旅順はは冬でも凍らない天然の良港で、昔から軍事的にも経済的にも重要な場所。19世紀末になると、この地域を巡って日本とロシアが争うようになり、特に日露戦争(1904年~1905年)の舞台として有名です。

📍旅順へのアクセス

まず、大連市中心部から旅順へ向かうには、地下鉄で「旅順駅」まで約1時間ほどかかります。大連の中心地からは少し離れていますが、乗り継ぎもスムーズなので比較的行きやすい場所です。

ただし、旅順駅に着いた後、観光地を巡るには少し工夫が必要です。観光スポットが広範囲に散在しているため、効率的に回るにはタクシーをチャーターするのがおすすめです🚖✨ または、日本の現地ツアーで回るのもいいですが団体だと時間指定されるのでかなり時間がかかります。当方は現地で白タク調整し、以下の名所を4人で巡りました~運ちゃん🚖も外国人対応に慣れたものでした😊

今回の旅情観光にて回った箇所~まずは上半分を紹介
旅順駅からタクシーで街中を移動

📍旅順観光:意外と少ない中国人観光客

旅順に着いて少し驚いたのは、観光客がとても少ないということです。これは、前述大連①で記載していますが中国人と日本人の観光場所が異なるということ、すなわち中国人観光客はほとんどおらず、むしろ外国人、特にロシア人や日本人が訪れる場所のようでした。

現地で手に入る中国語観光案内には、203高地の場所が記載されていないものが多いんです!これはちょっと意外でした。タクシーの運転手さんに聞いてみたところ、「203高地は外国人観光客(特にロシア人や日本人)向けの場所として知られている」とのこと。彼らも主に外国人を案内することが多いそうです。

中国人向けの旅情観光案内~203高地の記載はなし

2.東鶏冠山北堡塁


ここはご存じのようにロシア軍が旅順要塞の一部として築いた防御拠点。丘の上にあり、砲台や塹壕、地下施設が備えられた頑丈な構造です。戦略的に重要な場所で、203高地と並ぶ日本軍との激戦地となったところです。1904年、旅順攻略を目指す日本軍は、この堡塁に大規模な攻撃を行いました。地雷を使った爆破作戦や激しい突撃戦が繰り広げられ、多くの犠牲が出ました。この堡塁の陥落が旅順全体の崩壊に繋がり、戦争の流れを日本有利にしたと言われています。

コンドラチェンコ少将の慰霊碑(中央)
敵陣を地下から爆破させた場所
ロシア軍の隠しトーチカが有名だが、日本が撃破

3.水師営会見所


1905年1月、日露戦争の終盤、旅順要塞が日本軍に攻略された後、日本の乃木希典大将とロシアのステッセル将軍が和平交渉を行った場所です。もともとは地元の農家の家で、質素な建物に世界的に重要な歴史の舞台が広がっています。
ここは、再建された農家の家という感じでした。日本人とロシア人しか訪れない場所らしく年配のガイドが出てきました。ガイドというかお土産屋の店員なのですが、私たちが行くと丁寧に日本語で説明してくれて戦争の悲惨さを後世に伝えてほしいとお願いされました。また、大連日本人学校の修学旅行などにも使われているようです。

ステッセル将軍が乗ってきた白馬が乃木大将に送られ、その馬がつながれたナツメの木(右)がありました
入って左側の日本側控室
通路を挟んで向かいのロシア側控室は入れるが何故か撮影禁止(右)
両軍合わせて3万人余りの戦死者を出した日露戦争最大の激戦「旅順攻囲戦」に終止符を打った「水師営の会見」の様子を描いた歌。歌詞を作ったのは歌人として著名な佐佐木信綱。

4.望台山砲台


ここは、旅順要塞の防衛拠点の一つで、旅順港を守るためにロシア軍によって築かれました。望台山という名前の通り、周辺を一望できる高台に位置し、その地形を活かした堅固な要塞構造が特徴。日露戦争当時、ここには大砲や機関銃が設置され、陸と海の両方からの攻撃に備えていました。歴史の教科書で見たあの「旅順要塞」の一部です。

1899年製の20センチ砲でロシア語刻印

5.旅順日露監獄旧跡博物館

ここは日露戦争中に日本軍がロシア軍の捕虜を収容していた監獄跡を保存しています。ここでは、戦争の影響や捕虜たちの過酷な生活がどのようなものであったのかを学ぶことができます。博物館自体は1980年に開館し、今でも多くの観光客が訪れる人気のスポットです。特に、戦争に関連する実物資料や写真が展示されており、当時の生活や状況をより深く理解できるようになっています。

6.203高地

①概要/記念碑

旅順で最も有名な観光スポットの一つ203高地です。この場所は、日露戦争の激戦地として知られ、日本人やロシア人にとっては歴史的に非常に意味のある場所です。また、203高地を訪れる前に、ぜひ映画「二百三高地」やドラマ「坂の上の雲」を観たり、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を読んでみてください!これらの作品は、203高地や旅順を舞台にした歴史的背景を深く描いていて、現地で感じる景色や雰囲気が何倍にも印象深くなります✨

駐車場入り口:ここから先は丘陵地を徒歩で登るしかありません
日露戦争戦死者の忠魂碑で乃木希典が建立。当時日本軍が使用していた三十年式実包をかたどっています。 乃木希典は自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん、汝の霊をまつる山)と詠んだそうです。この忠魂碑には爾霊山と刻印。

②大砲

随所に随所に案内板があります~中国語/英語/日本語
ロシア式150㎜キャノン砲
日本軍280mm榴弾砲。ロシアの150㎜より当然大きい。

③戦略

順港の入り口・旅順口です。幅はわずか273メートルで非常に狭いです。この狭い入り口を、古い船を沈没させて閉鎖して、ロシア旅順艦隊が出撃できないようにしようとした作戦が「旅順口閉塞作戦」です。しかし後に広瀬武夫少佐の戦死などもあり、この作戦は失敗。

203高地から見た旅順港で、明治37年12月に日本軍が見た眺めが下の写真(上が現在の写真)

そして次に検討されたのが、陸軍の力を借りた「203高地の争奪」です。ここを取れれば上写真のように旅順軍港は丸見え。ここを観測所として使い、旅順軍港のロシア艦隊の位置を把握。砲撃をかけて粉砕するという作戦でした。旅順口閉塞作戦の失敗を受け、日本軍は陸軍を投入して203高地の争奪戦を展開。この高地の制圧により、日本軍は旅順軍港のロシア艦隊を砲撃し、壊滅させることに成功しました。結果として、旅順要塞は陥落し、日露戦争の勝敗を決定づける重要な転換点となりました。

④戦闘の結果と影響

  • 日本軍の損害

    • 203高地攻略戦だけで約8,000人の戦死者を出した。

    • 旅順攻囲戦全体では約5万7,000人の死傷者。

  • ロシア軍の損害

    • 旅順守備隊(約4万人)のうち、多くが戦死・負傷。

    • 1905年1月1日、ロシア軍は降伏し、旅順要塞は日本軍の手に落ちた。

  • 戦略的影響

    • 旅順の陥落により、日本軍は南満州の制圧を進め、日露戦争の勝利へ大きく前進。

    • 日本はロシアに対して優位に立ち、ポーツマス条約(1905年9月)の締結へとつながった。

⑤現地土産


観光客向けに以下のようなものが屋台で販売されていました。さすがに砲弾はダメなので、中央下の一圓玉を購入😳💰・・・日本の骨董店で買うより安い🎉🛍️・・・本物かどうかは?だが、紙幣ではなくさすがに硬貨のレプリカ作成は大変だと思いますので・・・

⑥総括

203高地は日露戦争における最大の激戦地の一つであり、その攻略によって日本は戦争の勝利を決定的にしました。しかし、日本軍・ロシア軍ともに甚大な犠牲を伴い、戦争の過酷さを象徴する場所となっています。
日本人の大連観光でここを訪れない人はいないと思います。
ぜひ、参考にしてください・・・ただ、お土産はあくまでも自己責任でね⚠️


いいなと思ったら応援しよう!

アオムシン(中国駐在記)
よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!