それでも、いい子はやめられないようだ
怒涛のイベントシーズンを終えて、ようやく落ち着いた生活に戻った。イベントの会期中、若手の子がダウンしてしまい、その様子を見てふと思ったことがあったので書き残しておく。
最近入ったZ世代くらいの若手社員がいる。イベント要員として採用され、海外のチームと準備を進めていたが、業務が手に負えず会期中ずっと体調を崩し、全日欠勤してしまった。
体調を崩しても、この子はいい子だった。会期中、関係者への連絡に必ず「申し訳ございません、〇〇について」「お忙しいところ申し訳ございませんが、よろしくお願い致します。」を入れる。社会人からすれば当然の礼儀であるが、ここで言及したいのは、いい子であるという点だ。
というのも、社会人なら状況に応じ礼儀の言葉も変えるのが普通だが、この子は違った。必ずメール文の頭と末尾に定型の謝罪文をつけ、間に業務依頼をぶっきらぼうにまとめる。形骸化した謝罪文に挟まれ、詳細やゴールが見えない不明瞭な業務を依頼する。仕事の質としては、あまりにもひどかった。当然、辛辣な回答も同僚から寄せられたが、それでも、無視せず全てのメールに回答していた。怒ったり自暴自棄になる素振りを見せず、できる限り対応を続けていた姿が強く印象に残った。粗末な仕事ぶりより、体裁を整えることに必死だった。
なぜ、ここまでいい子を貫くのだろう。はじめは、いい子以外に自分を表現できないのではないか、と思った。しかし、どちらかといえば「適当になりきれない」のだろうと考えるようになった。
仕事に対して不誠実な態度をとりつつも、適当になりきれいないジレンマを抱える若手の姿が、見え隠れしていたと僕は考えている。
SNSネイティブの世代は幼少の頃から、我々より多くの現実に晒され、社会の様々な現象を直接的にも、間接的にも触れてきたと思う。例えば、炎上、不倫、不祥事。また、いじめや、陰口。さらに、最近SNSでよくある自己啓発や投資などの資産形成。個人の価値観や判断基準は、どうやってストレスなく現代社会を賢く、自分らしく生き抜くかが前提のコンテンツに晒され続けている。
そういう経験をしているからこそ、自ら進んで適当になることは誹謗中傷の格好の的であると理解しているし、現代社会を生きるうえで”あるべき”姿ではないことを身体レベルで信じてしまっている。それゆえに、適当になりきれないのではないか。
世間が世間なら、不真面目や適当になることですら、インテリジェンスが必要な現代なのだろう。便利で快適なはずの現代社会で、一つ、生きづらい世界観を見つけてしまったように思う。
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