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千葉先生のエッセイを読んで

昨年のメモやツイート・ブログ・飲み会話を省みると「もちろん言い切れないんだけど」「すべてがすべて、そういうわけじゃないけど」と言う機会が増えたと思う。

例えば、会社で大学生の傾向について聞かれた時。大学の後輩から、就活について聞かれた時。アカデミアと企業の違いについて会話する時。一つの傾向や解釈を伝えるときに「みんながみんな、そうとは言えないんですが」と添えて説明することが多かった。

一方で、最近のYoutubeやテレビでも識者が解説する時「必ずしもそうだとは言えないんですが」と言っているのをよく見かける。恐らく、苦情や炎上対策、顧客の離脱対策で添えているのだろう。発言の意味は、完璧に制御できない。受け手に依存する。

商業的に大衆へ向けて発信するメディアである以上、発信する情報には責任が伴う。個人と法人、事実と意見を区切るためにこの類の言葉を添えているとすれば、それは社会的な責任を果たしていると説明できるだろう。では、個人、自分の場合はどうだろうか。

自分の場合、「相手を傷つけないために」「相手の主張を抑え込んでしまわないように」「議論に関係ないツッコミをもらわないために」断言を避け、”必ずしもそうとは言えない”と言うことが多かった。強く主張して、相手がその主張に飲まれないように。

「就活?(もちろん全員とは言えないけど)多くの人が始めてるよ」
「(もちろん他の案もあるだろうけど)A案が合理的でしょ」
「(すべてがすべて、そうじゃないけど)こういう傾向があるよね」

聞き手が自分の主張を鵜呑みにしないように、正解と捉えないように、細かな例外で口答えしてこないように、断言を避けていたように思う。その態度は、どのように批判できるだろうか?

そんなことをぼんやりと考えていた時、千葉先生のアイロニーとユーモアの話を読み、「アイロニー/ユーモアは中断する必要がある」に大変納得した。アイロニーとユーモアは、中断しなければいけない。気にしすぎてはいけない。

何か一つの主張に対し、例外の根拠を持ってきたり、別の観点や基準を持ってくるのをやり過ぎると何も主張できなくなってしまう、と書いてある。確かに。相手を忖度し、断言を避ける言葉を添えながら主張する自分の姿勢は、受けてに配慮しているように見えて、逆に例外を意識させてしまい、その主張の価値を貶めていると言えるかもしれない。また、大衆へ向けて発信する際は、自分のオリジナリティを、自分で規制してしまう恐れがある。

また「重要なのは、一人一人が自分のストーリーを語れるようになる自由を後押しするためにこそ自分が率先してストーリーを語り出す、ということ」とも書かれている。多様な受け手を勝手に想像し、勝手に配慮して「必ずしもそうとは言えない」と言う事は、議論に対し逃げ腰だと言われているように思えた。

千葉先生は何も主張できなくなってしまう状況を『弱さに安住したい意識』と説明している。主張に対し、批判を受けないよう取り繕うさまを弱さと表現しているのだろう。その姿勢・心意気を見習わねばと強く感化された。

#ツイートから転載

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