ウィーン・日本をつないだファンタジーと生命感溢れたデザイン「『マイ・ファースト・リチ My First Lizz 上野リチのデザイン』青幻舎・2022年」三木学評
2021年11月16日から2022年1月16日まで、「上野リチ ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」展が京都国立近代美術館で開催され、上野リチというウィーンと日本をまたにかけて活躍したデザイナーの先駆的で幅広い活動が改めて紹介された。上野リチの大規模な展覧会が開催されたのは、2009年、京都国立近代美術館と目黒美術館で開催された上野伊三郎+リチ コレクション展以来のことになるかもしれない。
上野リチこと上野リチ・リックスは、1839年にウィーンに生まれ、ウィーン工芸学校を卒業の後、ウィーン工房でデザイナーとして活躍した。本名はフェリーツェ・リックス(Felice Rix)だが、愛称は「リチ(Lizzi)」で、日本の建築家、上野伊三郎と結婚後、上野リチと名乗った。本書は、展覧会にあわせて制作された、上野リチに初めて関心をもった層に向けて制作された入門書といってよいだろう。
本書では、リチの代表的な仕事を、壁紙、壁面の装飾、七宝、テキスタイル、アクセサリー、飾りと絵巻物に分けて紹介されている。リチは、膨大な作品やデザイン柄に比べて、その人となりや経歴はあまり知られてなかったといえる。本書では、作品図版が中心の展覧会図録に対して、池田裕子(京都国立近代美術館学芸員)、鶴岡真弓(多摩美術大学美術館館長/装飾デザイン史・ケルト芸術文化史)、小池一子(クリエイティブ・ディレクター)、青木綾子(美術作家)、藤野可織(小説家)、角山明子(神奈川大学准教授/デザイン史・美術史)など多様な寄稿者によって、上野リチの人柄と仕事について、様々な角度から解説されている。
上野リチという、個人の人生やデザインについて語ることももちろんできるだろう。しかし、そこから見えてくるのは、上野リチを上野リチたらしめた社会状況であり、それによって成し遂げられたこと、日本にもたらされたものの重要さだろう。
上野リチは、19世紀末、様々な文化が爛熟し、「世紀末ウィーン」と称されたウィーンに生まれ、ウィーン分離派の中心人物であった建築家のヨーゼフ・ホフマンにウィーン工芸学校で教えを受けている。ホフマンは、ウィーン工芸学校で1899年以降、37年にわたり教鞭をとった。さらに1903年には、同じく分離派のメンバーであったコロマン・モーザーと共にデザイン工房、ウィーン工房を立ち上げている。そこでは、ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動に影響を受け、建築だけではなく、内装、家具、服飾、布など生活にまつわる多くのものが制作された。
1919年には、ドイツのワイマールでバウハウスが設立され、モダニズム運動の中心になっていく。バウハウスは、学校と工房の一体化したような形態であったが、その意味では、教育機関としてのウィーン工芸学校と、生産と経済活動を行うウィーン工房もまた一体のものであったといえるだろう。装飾性を排除した幾何学的な形状を特徴とするバウハウスと比較して、ウィーン工芸学校及びウィーン工房はより濃くモリスの影響を受け、装飾性を残したデザイン運動であったといえる。
しかし、リチのデザインの装飾性は、植物的モチーフを使って対称性や反復を特徴とするモリスと違って、非対称性で余白を残すものであり、軽やかである。鶴岡真弓は、「「植物装飾=ヴェジタル・オーナメント」とは単に「花」を指すだけではなく、人間が大地に植え育む作物までを含む植物意匠である。リチはこの「オーナメント=植物・文様・意匠」を空間に固定してしまうのではなく、有機的環境として人を包み込み「生きて」風に揺れ続けるデザインとして表した」(p.34)と評する。さらに、それは日本のオーナメントや琳派などにも通底するセンスであり、「日本やアジアの自然観に通じるたおやかな「風と土の記憶」を投影するもの」「「風の通り道=余白」を用意し、「垂直・水平・斜め」の乱数的配置でオーナメントを揺らす」(p.34)と指摘する。
リチがウィーン工房で活躍した時代は、アールヌーボー(ユーゲントシュティール)からアール・デコに移行する時期にあたる。1925年、パリでは「産業と装飾の万博」、通称「アール・デコ博」が開催され、幾何学的装飾が流行する。それは全世界的なもので、日本にもアール・デコのデザインが浸透していくことになる。実は、アール・デコ博には、リチも出品し銅賞を受賞している。ただし、リチのデザインは、単純化されてはいるが、抽象的なものではなく、植物の有機的形態を残すものであった。
リチだけではなく、ウィーン工房にいた女性たちがこのような活躍ができたのは、第一次世界大戦で男性の多くが兵士となり、人手不足になったことも大きい。それを機に多くの女性が働き手として社会に出ることになった。日本でも女学生や職業婦人が社会に進出し、「モダンガール」と称されたが、残されたリチの写真は、まさにアール・デコ風の短髪と帽子を被っており、当時のファッションを体現している。
第一次世界大戦の終結にはスペイン風邪の大流行が要因の一つであるというのは、新型コロナウイルスの流行以降、多くのメディアで取り上げられた。とりわけクリムトやエゴン・シーレなどウィーンを代表する芸術家が亡くなっているため、少なからずスペイン風邪の影響もあっただろう。
アールヌーボー以来、ジャポニスムの影響は大きいが、リチは1923年に関東大震災の影響で伝わった新たな日本の都市をテーマに幾つか作品を制作している。1924年には、 ヨーゼフ・ホフマン建築事務所に在籍していた、上野伊三郎と出会い、1925年には結婚。翌年には、来日し、2人で京都に上野建築事務所を立ち上げる。その後も、ウィーン工房に在籍し、1930年で退職するまで日本と行き来する。つまり、アール・デコ博にも出品した、第一級のデザイナーが、同時代に日本とウィーンの両方で活躍したということなのだ。もちろん、フランク・ロイド・ライトやブルーノ・タウトのような例もあるが、デザインの面からのリチの貢献はもっと評価されていいだろう。
ユダヤ系であったリチは、ヒトラーの政権掌握後は、ウィーン帰国はできなくなったが、1935年から京都市染織試験工場図案部の技術嘱託として終戦1年前の1944年まで務めたり、日本の伝統技術とリチのデザインが交じり合っていく。それらは日本の伝統工芸や装飾文化がリチのセンスによって統合されている。
このウィーンと日本の装飾文化・伝統工芸の絶妙な組み合わが、リチの成し遂げたものだと思うが、そこにはリチが重要視する「ファンタジー」がある。これもまた、モダニズムが切り捨てたものだと思うが、デザインが単なる機能性の道具となるのではなく、ファンタジー、想像力をもとにそれぞれの形や色、キャラクターが「生きている」のである。デザインから見えてくる「生命感」こそが、現在のデザインと一線を画したものだろう。
戦後、リチは多くの学校でデザインを教えた。摂南工業専門学校(現・大阪工業大学)、大阪市立大学家政学部(現・生活科学部)、京都市立芸術大学で教鞭をとり、京都市立芸術大学では67歳で教授に昇任。主として色彩構成による基礎教育を担当していたという。京都市立芸術大学では、受験においても、色彩構成という科目があるが、それもリチの影響かもしれない。
卒業生の京都市立芸術大学名誉教授の鈴木桂子によると、リチは、ホフマンやココシュカの授業の様子をよく話していたという。想像力や触覚を重視し、対象を見たデッサンや情報収集ではなく、素材を把握したり、瞬間の印象を描かせたというエピソードは、目から鱗が落ちる。リチもそれに似た課題を課したという。つまり、ウィーン工芸学校・ウィーン工房の理念は、リチを経て日本で育まれていたのである。それは、すべてがサーベイやリサーチベースになり、想像力の比重が落ちている現在のアート&デザインの在り方について再考を促すものでもあるだろう。本書には、リチ自身がウィーン工房について語った貴重な思い出も掲載されている。
1969年、定年の1年前、村野藤吾が設計した、東京・日比谷の日生劇場地下レストラン「アクトレス」の天井壁画の依頼を受け、京都市立芸術大学の学生とともに、作品を仕上げている。基礎教育から実践まで、それはまさにリチの教育の集大成であったことだろう。京都市立芸術大学退職後も、上野伊三郎とリチが中心となり、インターナショナルデザイン研究所(後の京都インターアクト美術学校)を設立し、教え続けた。
鮮やかで、軽やか、いつまでも古びない魅力を放つ新鮮で生命力のあるリチのデザインはなぜ生まれたのか?本書では、そのファンタジーの秘密の一端にふれられるだろう。