デコーディング・ワンダー
The Terminal KYOTOという京都の町屋を改装した展示空間(喫茶もできる)で、6月23日まで開催されている展覧会「デコーディング・ワンダー」は、発明的ともいえるアプローチで、今回、金澤韻さんは、アーティストとしてあえてクレジットされているけど、ある種のキュレーションの新しい在り方を提示するものになっていて、必見だと思います。
展覧会におけるキュレーターのテキストは、作品の解説を担うもので、展示はされているけど、同時にこれは作品ではありませんよ、という暗黙の了解がある。
近年の現代アート作品は複雑な内容が多く解説を読んで、作品を見ないとわからない作品が多いんだけど、解説を読む脳と、作品を見る脳は違うので、かえって鑑賞のさまたげになることもある。
文章は必要なんだけど、食い合わせが悪いみたいな状況が続いていて、なかなか解決する方法が見当たらなかった。いっぽうでアートの方も、もはやテキストだけで成立するような作品が増加していた。それが、多くの人々にとってのストレスの原因であると思う。
今回用意されているテキストは、あえて解説という超越的な態度をとらずに、時には自分の私的なエッセイのように、時には作品を見た鑑賞者の感想のように、押し引きしながら、非常に短い詩的な言葉がつむがれている。
それによってより作品に没入できるという仕掛けになっていて、言葉の使い方が非常にうまい。
これをキュレーターという立場を取った場合にできるのかどうかわからないけど、今まで展覧会が抱えていた文章と作品、キュレーターとアーティストという役割分担の形式的な相性の悪さや矛盾を、非常に創造的に解決している。
金澤さんは、今までの展覧会の中でも、文章をどうのように創造的に使うかさまざまなトライアルを続けてきたけど、今回はよりそれが前景化し、空間の中のエッセイと写真、挿絵といったような一つの織物として完成度の高いものになっていたように思う。
非常に短い時間で準備されたと思えない完成度であるし、面白いと思うのでぜひ都合のあう人は見に行ってください。
後、テーマもそもそも、人間は理解できない部分を抱えているという前提になっていて、現代アートに詳しいから、コンテキストを理解しているからといって受け取れない場合もあるし、知らなくても響く場合もあるという、アートの特権性からも意図的に距離をとっていることも好感が持てる。