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日本人は、なぜ家族で一つの姓を名乗るのか

 日本人は、血縁を大事にする。血のつながりだけでなく、結婚や養子縁組によって家族は構成される。ただ、血がつながっていないとすれば、家族であることを証明する一番簡単なものは「姓」だ。
 

同姓と別姓

 少し前の話になるが、「選択的夫婦別姓」制度について国会だけでなく、巷でも議論がなされていた。

 結局、じゃあ子供の姓はどうやって決めるんだとか、姓が違う子供を愛せるのかなど論理だけでは片付けられない様々な問題が出てきて(直近で議論しなきゃいけない他の問題も山積みだった)、今すぐ本格的に国会で議論するということは一応なくなったが(そもそも快適を追求するのは論理なのか?)。

 竹田恒泰氏が言うように、“伝統は変えるべきでない”というのがやはり行き着く先だろう。
 普段着ないタイプの服を着たり、髪型を変えてみたりすることを、人は「冒険」と言う。ファッションなら似合わなかった時には元に戻すことができるが、国とか文化レベルで「冒険」してしまうとそれはもう元には戻せない。

夫婦同姓じゃなきゃいけない理由

 私も、夫婦が同姓じゃなきゃいけない理由を色々と考えた(“選択的”なので、夫婦別姓じゃなきゃいけない理由は存在しない)。
 結果、私は理由ここにあると考えた。
 

お前の親と俺の親と どちらも同じだ大切にしろ
姑小姑かしこくこなせ たやすいはずだ 愛すればいい

さだまさし『関白宣言』(1979)

 考えに考えた結果導き出した答えが、それが“愛”だからである。
いや、なんだよそれっ——————お叱りはごもっともである。しかしながら、これが一番大切なことなのではなかろうか。
 これは、さだまさしが書いた『関白宣言』の2番の歌い出しである。
 これが、家族・氏族、血縁を大切にした2000年の歴史の答えではなかろうか。この歌を「前時代的」と頭ごなしに批判するのは、詩の何たるかを理解していないからであろう。この歌は、高度経済成長を遂げた日本に、夫婦とは何かを問いかけているのである。当然それは、冒頭の8行を聞いたくらいで理解できるものではない。
 夫が妻を「お前」と呼んでいるからといって、夫が妻を見下しているわけでも妻より強いわけでもない。「お前」という語は照れ隠しに過ぎず、この歌では、常に夫は弱いのだ。

忘れてくれるな 仕事も出来ない男に 
家庭を守れるはずなどないってことを

さだまさし『関白宣言』(1979)

 また、老後に関しては、

例えばわずか一日でもいい 俺より早く逝ってはいけない

さだまさし『関白宣言』(1979)

 寂しがりやの不器用な男の愛情についての歌なのだ。この頃は、団地やアパートで2人の新婚生活を営むという新たな家族の形が生まれた時期であった。ゆえに、先ほど述べたような問いかけを、さだ氏は行ったのではなかろうか。

 日本の思想の歴史に比べれば、我々が昨日今日で考えたことなんて、とってもちっぽけに思える。


「婚」とはなんぞや


 日本には“嫁(婿)をもらう”という表現があるが、この主語はしゅうとしゅうとめであり、夫(妻)ではない。日本語で、「結婚」は、新たに家族(夫・妻)を迎え入れることを意味するのであって、単に“結ばれる”ことを意味するのではないことをご承知いただきたい。
 また思うに、“もらう”というのは、嫁(婿)を蔑視したわけではないのではないだろうか。和語では物も者も同じモノであるから、物でも者でも“もらう”と表現してしかるべきではないか。ただ場合によっては丁寧に、“嫁(婿)を迎える”と言った方が適切だろう。
 “婚”という字は、女偏が女を、右側が縁組の儀式を表しているとされていて、女が家庭に入る側だからそうなんだろうと考えられているが、果たしてそれだけの理由であろうか。女偏は、ただ女を意味するのではなく、命のはじまり(象徴)であるとか、神聖さを意味していると考えられる。女偏の漢字が60以上あることからも、想像に難くない。

 字の本来の意味や成立した経緯は、字を作った人たちだけにしかわからない。字への解釈はその字を使っていく人が付け加えていくものである。
 特定の漢字や日本語に悪いイメージをつけていく現代人もいるが、彼らは、日本語にコンプレックスを抱えているのだろうと私は思う。


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