今年3年目のマイ田んぼに挑戦している8歳の娘
昨日は播種をした
「遊ぶ時間がなくなるー」
宿題をしている時にそう言っていた。
「やらなくてもいいよ」そう言いかけた時に、
「これ何?」「ここはどうすればいいかな?」と、わからないところを教えあったり、相談したりしているのを見て「まぁ、いいか」と、さっき言いかけた言葉を飲み込んだ。
先任の校長先生と懇談する機会があった際に、保護者側からは「宿題をなくしてよいんじゃないですか」という意見があった。それに対する反応は「それはあり得ない」という確固としたものだったので、「選択制にしては?」と言うと「そんなことをしたら誰もしないでしょ」と返ってきた。
その校長にとって数値として表すことのできる学力と評価は絶対であった。
それ以前に面談の最後に聞かされた発言が全てを物語っていた「今年で退職なんです」
chatGPTのようなサービスが出現した現代だからこそ、
種を蒔いて作物を育てる行為の重要性が増すと思う。
土にまみれて、様々な生物の存在を知って、思い通りにならないことを体感する体験。
原理や仕組みを、活字情報で知るのと、自分で失敗して知ることの違い、その価値の違いがわかるようになる。
子供達ももう少し大きくなると、この農作業体験によって得た地肉のある言葉を使って比喩や隠喩をするようになると思う。そうやってつむぎだされた言葉は机上の空論ではない思考ももたらすはず。
その思考はマッシブデータによって作り出されたものとは異質で、両者の間には乗り越えられない壁が存在すると思う。
リンクは同時期に拝読した佐伯さんの投稿