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生きる気しかしない
・道端どころか、土もろくにないような石垣の隙間とか、とんでもないところに花が咲いてることがあるよね。
だいたいは雑草と呼ばれてしまう植物だけれど、たまたま、そんなふうな条件の悪い場所に、種が落ちて、そこまで育ったんだろうね。
花を咲かせてなくても、青々と伸びている草なら、どこでも、いくらでも見かける。
よくこんなところで育つものだ、と人は思うけれど、草花は「こんなところ」であるかどうかには無頓着だ。
あらためて思うと、すごいことだ。
「生きる気しかない」ということなのだもの。
おそらく雑草ばかりじゃないだろう、草や木は、あきらめるとか、がっかりするとかがない。
そんなによく知ってるわけじゃないけれど、植物ばかりでなく人間以外のほとんどの生きものって、「生きる気しかない」のではないだろうか。
そうだよきっと、自然って、もともと、「生きる」がテーマでそれしかないものなんだよ。よく考えてみたら、人間の子どもや赤ん坊だって、「もうだめだ」とか「生きる気がしない」とか言わない。
泣いていても、ひもじくても、生きるつもりで生きている。
そうとうに過酷な状況のなかにいても、きっと、いのちを失うその直前まで「生きる気しかない」んだろう。
ふと、そう思いついたときに、すごいなぁ、と、つくづくすごいことだと感じた。
なにかの教訓がほしいわけでもなんでもなく、生きものの前提が「生きる」なのだと思うと、うれしくなってしまうのだ。
むろん、「いつか死ぬ」こともほんとうなのだけれど、それまではずっと「生きる気しかない」ものなのだ。
これこそが「始原のルール」なのだとも言える。
そう思って、自然のなかの生きものたちを見ると、一途に「生きる」つもりで生きているなぁとわかる。
皮肉な目で見たら、アホみたいに見えるかもしれない。
だけど、一途であったり健気であったりすることは、自身を、そして周囲を力強くさせているぞ。
散歩のときの道端には、そういう草花がいっぱいだ。
(日刊イトイ新聞 2021年11月12日号より)
すべての生き物は「生きる」ことそのもの。
「生きる」に喜びや辛さなど意味を持つのは人間だけ。
「生きる」に意味を持たせることで
彩りになることなら、是非是非やればいい。
でも「生きる」の意味を取り違えて
「生きる」に絶望するのは間違いだ。
いかに「生きる」か
そのために自分の能力のすべてを使うから
生き物すべて素晴らしい。
しかし人間は考え動物です。
『「生きる」気がしなく』時もあるかもしれない。
そんな時
「生きる気しかしない」淡々と生きる。
このことを取り戻すことこそ大切だよね❣️