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頑張ったあとのフォンダンショコラ



noteを始めて、早や二ヶ月が過ぎました。

当初の目標の毎日投稿はとても無理でしたが、
自分なりのペースが、少しずつ掴めて来たような感があり、
拙いダラダラとした文章に目をとめて頂いた皆さんに、深い感謝でいっぱいです。

それぞれの人生の途上で、日々の料理作りの必要に迫られた時、
せっかくなら楽しんで向き合って貰いたいな、
お役に立てたら嬉しいな、といった思いにかられ、毎回偉そうに綴っていますが、
いざ自分にとっての料理は、どういう流れで今に至るのだろう、など、自分の来し方についてあれこれ考えているうちに、
不意に子供の頃の実家の台所の情景がぽん、と浮かび上がってきました。

当時の私は料理が好き、というより、台所にいるのが嬉しくてたまらない子だったような憶えがあります。

夕方仕事から戻って、料理の仕込みにかかり始めた母の横で、きまってキッチンの扉にもたれては足を伸ばして、長いこと座っていたものでした。

窓から西日の射し込む台所。
カチャカチャ、ジャー、パチパチパチ、などの、道具と食材が立てる音を背に、
今日はこんなことがあったとか、
お弁当の中身のこととか、
とりとめもなく聞いたり話したり。
普段忙しくて厳しい母とも、その時はしばしゆったりと語り合うことができ、
何とも安らかな時間でした。

もっとも、その後ちゃんと手伝いに回れているわけではありません。
今でこそ、曲がりなりにも料理のお仕事をさせていただいていますが、
実は私は自他共に認める「不器用な子」でした。
殊に、器用な父からは、しょっちゅう深い溜息と共に「不器用だなあ」と言われていたものです。

好きが高じて分不相応にも思えるこの仕事を志したあとも、なんでも器用にこなせる人と違い、一つ一つの作業に絶えず理性を優位に働かせ、集中を切らさないようにする工夫が必要でした。
話しながら、とか、他のことを考えながら、だと大抵うまく行かない、という経験を山ほどしてきました。

時を経た今も、気を楽にして臨むことはできていませんが、経験が味方になってくれるようになったとは思います。
器用な方に比べて、どうしたらうまくいくのか、失敗しないのかを考えるチャンスをたくさんもらえ、ありがたかったなと思えるようになりました。

仕事が一区切りついたある日のこと。
器の返却に行った帰りに、回り道をして大好きなパティスリーに立ち寄った私。
美しいお菓子やジャムが並ぶ中、自分へのご褒美に何の飾りもないフォンダン・ショコラを温めていただきました。
フォークを差し入れると、外側の焼けた生地の中から、とろりとした熱々のチョコレートソースが、皿の上で少しずつゆっくりと、広がっていきます。

自分なりにがんばって気を回し、周りの方に喜んでいただけるよう、張り詰めていた心の外側にフォークをさして、もういいよと、すぅーっと緩めてくれているような、そんなソース。
ため息をひとつついて、肩の力も抜いて、一口ずつ大切に味わいました。
以来、自分でも良く作り、がんばっている人にお届けしたりもしています。

台所の床にしゃがんでいた私も、いつしか母に。
気になるのは、わたし同様、娘もあまり進んで手伝おうとしないことです。
頼めばけして要領が悪いわけでもないし、段取りはかなりうまい方ではないかと思うのですが、
なんとなく当時の私のように、自信が持てずにいるような気がしています。

それでも、心配はあまりしていません。
娘の行く末は、可能性に溢れています。
いつかこの先、作る必要に迫られた時には
器用ならさらに伸ばせばいい。
もし不器用でも、大丈夫。
私もそうだから、心配いらないよ。
(…なんだか植木等の「だまって俺について来い」みたいに聞こえますが😆)

そう、言ってやろうと思っています。

#note  #料理 #不器用な自分 #フォンダンショコラ #自分へのご褒美 #わたしの仕事

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