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「転機」に「Take Free」って貼って誰かの横にそっと置いておこうと思う

自分のキャリアを考える機会があり、ふと昔を振り返ってみたいと思い筆をとりました。

浅井家の末っ子長男として誕生した僕はめちゃくちゃに大人しい子どもだったようです。赤子の時からあまり動かない。寝返りもしないから頭は絶壁。

幼稚園の入園式では母親と離れることに恐怖に感じて絶叫の大泣き。どのご家庭のホームビデオにも我が泣き声が入っております。アトンメント幼稚園のみんな要チェック。その泣き声は僕です。

マンション育ちの僕は同じマンションに住んでいた友達の“ハルくん”の影響で小学校1年生でサッカーを始めました。ハルくんは運動神経がよく格好よくて憧れの存在でした。スライディングの練習してるハルくんはめちゃくちゃかっこよかった。僕は汚れたくなくて真似しなかった。

当時1994年、Jリーグ開幕した年だったことを覚えています。ただ当時は何も分からずJリーグが昔からあったのかなんなのかも分からず時代に流されてサッカーボールを蹴り始めました。

なんせ内発的な動機でなく、「ハルくんがやるから」という理由なもんで、40人以上いる部員の中で1番下手でした。

みんながグラウンドで練習している中、下手すぎて外で両足交互にボールを触る練習をしていたのか、させられていたのか分かりませんが別メニューだったのを覚えています。あとボールが自分だけ赤かった(白黒の黒が赤だった)。

身体も1番小さく、周りは幼稚園からサッカーをやっているやつも多く運動神経も冴えない僕は完全なる落ちこぼれボーイでした。自分の意志でサッカーと関わっていなかった僕は上達するはずがありませんでした。

そんな僕に転機が訪れます。小学2年の時同じマンションに住む1つ年上の“ヤマさん”にリフティングを教えてもらったことをきっかけにその転機は訪れました。

当時僕のリフティング最高は3回。4回の壁は果てしなく高く、どうしてもできない。緑小学校でヤマさんにどういう流れかは覚えていませんがリフティングを教えてもらいました。

ヤマさんは“もも”を使ってリフティングをするスタイルを教えてくれました。インステップでスタートしていた僕はももでリフティングを始めることで、安定したファーストタッチが実現しその日のうちになんと4回の壁を越えました。

ヤマさんは「4回しかできない」と思ったかもしれません。しかしどこから湧き出たポジティブ思考なのか「4回の壁を超えた」という達成感が僕を満たしてくれました。

僕はこの日のことをよく覚えています。緑小学校の雲梯(うんてい)の前で放課後の夕暮れ時でした。「できなかったことができた喜び」を確かに感じた日でした。

この日から“ハルくんがやってるからやるサッカーの練習”から“上手くなるための練習”にシフトチェンジしました。ボールに触りたいという気持ちが内から湧き出ていました。

4回から5回、5回から7回、7回から10回、10回から20回、20回から50回とどんどんどんどん回数が増えていきました。放課後にサッカーボールを小脇に抱えて練習に明け暮れました。記録を更新することが、壁を超えることが楽しくて楽しくて頭がおかしくなりそうでした。

リフティングができるようになるとサッカーが上手くなるなんてことはありません。ただ、ボールに触るのが楽しいというマインドセットによってサッカーもどんどん上達しました。

端っこで別メニューをやっていた落ちこぼれボーイは3回から4回にリフティングの記録を伸ばした「達成感」を火種に上達速度が格段にあがったのです。ヤマさんホントに有難うございます。中学以降はヤマさんがイケメンすぎて話しかけられていませんが未だ感謝をしています。

ただ内気であり静かな浅井少年は“トシヤ”というチームメイトが苦手でした。彼は絵に描いたような“ジャイアン”なのです。きっとあの小さな達成感がなければ落ちこぼれボーイだった僕はいじめられていたかもしれません。

しかしサッカーが上達するにつれて彼とのパワーバランスも釣り合っていった気がします。内気の僕がサッカーという武器によって彼と同等にあれた気がしています。

サッカーが自分を変えてくれたというと言い過ぎですが、サッカーに対して外発的な動機でやっていたことから、内発的な動機で練習を始めたことで結果的に技術も人間としても成長することができました。

今後のキャリアを考える時に、サッカーに限らず「内発的に何かと関わる」という手助けを若い世代にしたいとぼんやりと思っています。

転機を与えるというとおこがましいですね。「転機」ってやつに「Take Free」って貼って相手の隣にそっと置いておくようなそんなことをしたいです。

っていう話しでした。

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