建築ドローイングにおける飛行機のアンビバレンス
今日昼、東京の青空をブルーインパルスのエアロバティック飛行による航跡雲が貫いた。医療関係者などエッセンシャルワーカーへの感謝と敬意を込めた飛行だったのだが、「そんなことにお金を使わず身になる支援を」とか、「元気と一体感をありがとう」とか、様々な意見が飛び交った。僕自身も、一言で語れない様々な感情が胸にたまった。
さて、その一件と関係あるのかないのかわからないが、ピクチャレスクな(見栄えする)ものとしての、あるいはスペクタクル(見世物)としての飛行機というイメージも、一言では語れないものとなっているように思われる。20世紀の建築ドローイングに焦点を当ててみよう。
(1) J. J. P. Oud, Housing design for Blijdorp, Rotterdam, 1931.
オランダの建築家アウトは戦後の住宅需要に答える合理的な高密ハウジングの鳥瞰図に、飛行機の右の翼を描きこんだ。
他にも同年代の建築ドローイングには度々飛行機が登場する。ヒュー・フェリスの空想都市、ウラジミール・シューコのソビエト宮殿案...
(2)Hugh Ferriss, Skyscraper Hanger in a Metropolis, 1930.
(3)Vladimir Shchuko, Palace of the Soviets Concept, 1933.
かたや未来的な合理性を歌っていて、他方は社会主義的リアリズムを表現するものだが、いずれにせよ描かれた飛行機は雄弁に合理性と現実性を語っている。
しかし同時にこれらの飛行機は夢見心地な雰囲気も漂わせる。合理的な機械でありながら、飛行という長らく非現実的であった現象を実現するものでもあるからだ。再びアウトの鳥瞰図に目を移しても、やはり我々は左上の飛行機の翼は合理主義の賛美以外のなにか愛すべき無駄のようなものを感じ取っている。
そんなモダニズムドローイングにおける飛行機というイメージの、「合理主義になりきれない」アンビバレントさを嗅ぎ分けたのか、反合理主義的な建築の未来像を建築それ自体を描かずして存分に表現しきった建築家がいた。
(4)Gianni Pettena, Imprisonment, 1971
なんとここでは長らく建築を”監禁”してきたグリッドがここでは曲技飛行の雲の線に置き換えられる。この線たちは時に有機的な揺らぎを湛え、しまいには蒸発してしまうことだろう。
ジャンニ・ペッテーナは当時のラディカル(急進的)な建築思想の苗床であったフィレンツェ大学を卒業してまもなくこのドローイングを描いた。
ここにはモダニズム的な合理主義(Rationalism)を、モダニズムが好んで用いた飛行機というモチーフを使って否認する意図が表れている。
そんなことができたのも、もともと飛行機というイメージ素材が、近代的な合理性を象徴しながらなおかつ合理性からはみ出た人間の夢、あるいは(誤解を恐れず換言すれば)知性の無駄遣いの心地よさをも象徴するものだったからだろう。
20世紀という合理(理性)主義と反合理(反理性)主義の大きなせめぎあいを大胆にもまとめて象徴した飛行機という図像は、21世紀、22世紀においてはどのようなイメージを担っていくのだろうか。
図版出典
(1)J. J. P. Oud, Housing design for Blijdorp,... - LESS IS MORE https://less-ismore.tumblr.com/post/93007746097/j-j-p-oud-housing-design-for-blijdorp
(2)Hugh Ferriss - Silodrome https://silodrome.com/skyscraper-hangar-in-a-metropolis-hugh-ferriss/
(3) Palace of the Soviets -Wikiwand https://www.wikiwand.com/en/Palace_of_the_Soviets