友達の人格は勝手にぐちゃぐちゃになっただけ(確証バイアスの非推奨)
機序を一番理解しているのは私であろうと思うので筆を執る。
K君と、自我無し達にCを含めた五人の間には、認識の齟齬がある。Cはいつしか目的をすり替えたし、四人は正確に理解しないまま熱病に罹ることを望んだ。現実を遠ざけて熱狂できるものであって、それが大好きなK君と深く関わることだから諸手を挙げて賛成しただけ。
K君は初めから“同じ生き物”になることなんか望んでいなかった。K君はもっと幼い頃に、より閉鎖的なコミュニティでそれをやったから。私達が知っているK君はすでに、誰かと同化した後だったのだ。
K君の目的は初めから“一つの脳のように機能する共同体の構築”であって、他者との融合ではない。群知能は群なのだ。個を確立したまま複数である状態で、大きな一つのように思えるもの。大きな一つそのものではない。何度も説明したのに。取りこぼさないように言い方を変えて、図解までして、Cと自我無し達はそれを曲解した。だから勝手に全てを融かして、勝手に破綻して勝手に修復した。
私達が成すべきことはお互いに歩み寄って共通項を増やし続けることであって、一元化ではなかった。私とK君はこのコミュニティを、共通認識を持った複数からなる堅牢な共同体だと認識していた。周囲の大人にもそのように伝えていたし、だからこそ健全な関わりだと見守られていた。Cから問題が提起されるまでは。
私はこれをK君に共有しなかった。理由は簡単、そこまでの責任がないから。K君は説明責任を果たしたし、当時は同年代の青少年であった。物事を曲解したのはCで、理解を怠ったのは自我無し達だ。考えればわかることを考えなかった末路だ。私はこれを自己責任だと捉えているし、幼かった彼らに責任はないと言うなら、K君には尚のこと無関係な話だ。
それでも勘違いしたまま放っておけば面倒事を引き寄せると思ったから後始末を手伝った。K君に迷惑をかける可能性があるし、そうなればK君は瞬きのうちに絶縁するだろうから。それに巻き込まれるのはごめんだ。私は間違わなかったのだから、側にいても問題ないのに。自我の形成なんて本来は彼らが自分でやるべきことだが、できないなら仕方がない。あんよが上手、自分で立ちましょうね。
この共同体は当分のうち存続するだろう。だが彼らが本当に理解した時、K君と自分は隔絶された存在で、お互いの努力で限りなく接近していただけだという事実を受け止めた時。彼らは他人になって、一人になって、自分で生きていくことを知るのだ。そうなれば、この共同体はもはや無用の長物だろう。