壁に耳あり障子に目あり
妄想と想像の子供だった。
一つの妄想と想像が、脳にとぐろを巻くように居座ってしまうとそれは妄想や想像でなくなってしまう。
事実にしてしまえばそれは妄想でもなく想像でもなく経験となる。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
このドイツ人がほざいた格言が事実なら、間違いなく僕は愚者になる。
それを事実にしてしまえば後が大変になるとハッキリとわかっていても、抑えが効かない子供だった。
小学校の周囲に駄菓子屋が点在していた。
駄菓子屋には菓子類ばかりじゃなくて、色とりどりの玩具やらくじ引きやら、裏手には文具類まで揃っていた。
ただ僕はそんなものが欲しいと思ったことは一度たりともなくて、その店の奥から漂うウスターソースが焦げる匂いの元にしか興味はなかった、
油の染みた黄ばんだ短冊には豚玉とかイカ玉とかスペシャルとか記されていた。
焼きそばやお好み焼きだった。
これを腹一杯に喰うために何をすべきか、、そんな妄想と想像をし始めていた。
昭和の50年、、まだ三年生になったばかりの春にそれを決行した。
スペシャルの焼きそばとお好み焼きで腹一杯になり、絵の具を溶かした様な緑色の炭酸を飲み干し、父親の財布から抜き取った万札を突き出すと、駄菓子屋の歯抜け女が目ん玉を剥き出しながらお釣りを差し出した。
その足でソロバン塾に行き、何食わぬ顔で帰宅したが腹一杯で夕飯が何も喉を通らなかった。
夜遅く父親が帰宅し、こんなことを言いながらソロバンで力一杯頭を殴られた思い出があるのです。
「壁に耳あり障子に目あり!」
部屋の隅々にまでソロバンの駒が飛び散った。
何故だろうか、、その瞬間、僕にはその声が剣道の(お面えぇーん)という叫び声に聞こえたのです。
どんなに罵られようが、どんなに痛めつけられようが、その時にしか味わうことのできないものだってある。