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#34 私の生い立ち①-CEO窪井

こんばんは、株式会社ctow 窪井です。今日から私の生い立ちについて紹介していこうと思います。なぜなら、ctowの創業と私の生い立ちは切っても切れない関係にあるからです。今日の投稿を「私の生い立ち①」としてますが、何話まで続くか分かりませんが、いってみましょう!

島根県益田市で誕生

1993年の9月9日、私は島根県益田市で生まれました。育ったのは山口県萩市なのですが、母の実家が島根県にあり、そのため島根県益田市の日赤病院で生まれたようです。

山口県萩市で育つ、両親は教員

私の両親は中学校の教員です。私は3歳上の兄と、私の男2人兄弟です。私を産んだ時、父は35歳、母は32歳くらいでした。つまり、教員として最も働き盛りの時です。私は、保育園に預けれていましたが、両親がお迎えに来てくれる時間は友達の中で最も遅く、21時を回ることが常でした。なので、16時くらいに友達が帰ってからの数時間は、先生と遊んだり、同じく両親が働いてお迎えが遅くなる友達と夜まで遊んで過ごしていたようです。私は、物心ついていなかったので、それを当然のことと思い過ごしていました。今思えば、両親と過ごす時間が少なかった分、”社会”と接する時間が多かったのだろうと思います。

小学生に上がるとおばあちゃんに育てられた

私は萩市立椿西小学校に入学しました。相変わらず両親は多忙を極めていたので、私と兄はおばあちゃんの家で暮らすようになります。おばあちゃんの家は、小学校から100mの距離にあり、朝起きて1分もあれば教室に到着するほどアクセスの良さがありました。なので、小学校のグラウンドも近く、毎日友達とサッカーや野球をして遊んでいました。小学校のグラウンドを自分の庭のように使っていました。結果、小学生の私は、狂ったように友達と遊んでいました。365日中、360日は友達と遊んでいたと思います。家の近くにあるグラウンド、両親の手を離れおばあちゃんのもとで自由に暮らしていたこと、この2点が組み合わさり自由な日々を過ごすことができました。

「楽しい」

それ以外には何もない。ひたすら楽しいから友達と遊ぶ。川で気を拾ってきて形を整えバットにして野球をしたり、神社で枝と草を駆使して秘密基地を作ったり、友達の家でゲームしたり、小学生の頃にするであろう遊びは全てやったと思います。この頃の自由な日々では、友達を選ばずに遊んでいたので、「人間っていろんな人がいるんだぁ」「なんか面白いなぁ」と無意識に感じていたのだと思います。

社会や人への好奇心は、この時代に成長したはずです。

先生の子供って何?

そんな自由な日々ですが、社会に違和感を感じたのもこの頃です。その違和感とは、おばあちゃんの友達や、友達のご両親や、社会全体に「先生の子供」として見られることでした。

「先生の子供だから、優秀に育ってるね」

そう言って笑顔で話しかけてくるおばあちゃんの友達を見て私は、「この人は誰を見て笑っているんだろう?」と思っていました。当然私に微笑みかけているのですが、私の中の「先生の子供」という部分を見てそう言っているのかと思うと疑問でした。確かに私は、「先生の子供」なのですが、その前に人間である。「先生の子供」でも優秀でない人はいるし、自分が優秀だと言われても実感がないので嬉しくない。そして私は、「先生の子供」ではなく、「窪井耕」だ。ここまで言語化はできていなかったですが、言葉にならない違和感を感じていました。大人って、肩書きや表面上の情報で判断して、その人自身の本質には興味ないのか!?悲しさというか虚しさを感じたのを覚えています。

「あれ!社会って正しいわけじゃないんだ!!!!」

生まれてから大人=正しいことを言う人というイメージがありましたが、生きれば生きるほど、大人が正しいことを言うわけではないと思うようになりました。結果、情報を自分なりに解釈して生きるようになっていきます。

その②へ続く