ドラマ『犬神家の一族』についての雑感(※ネタばらしあり)

※この記事にはドラマ『犬神家の一族』のネタばらしが含まれます。
※この記事はあくまで個人の見解であり、DMSSの見解ではありませんのでご注意ください。

・はじめに

 先々週・先週と、ドラマ版『犬神家の一族』が二夜にわけて放映されました。
 大前提として、今回のドラマ版はよくできていると思います。斬新な解釈と、現代的な物語となっており、絶賛されるのも頷ける出来です。
 そのうえで、ちょっと感じたことを書こうかと思います。以下の文章にはネタばらしが含まれていますので、未見・未読の方はご注意ください(この記事は以前他でも少し書いたことがあります)。

・雑感
 現代劇として、『犬神家の一族』を解釈するとこうなるんだな、と思いました。登場人物の感情の動きに焦点を当て(もちろんストーリーも重視されています)、陰惨な話を陰鬱に終わらせてしまう、その手つきには驚かされます。
 今『犬神家の一族』を映像化するのだったら、過去の作品の焼き直しでない、現代的な新しい『犬神家の一族』が求められているのだろうと思います。

 ただ、横溝正史という作家は、「家父長制」への批判的態度を作品に取り込んできた作家です。それは、本作の原作を始め、『獄門島』や『悪魔が来りて笛を吹く』、『八つ墓村』、『悪魔の手毬唄』などの超有名作をお読みいただければ感じ取れるかと思います。
 今回のドラマ版では、その「家父長制」への批判的態度を「示すべき人々」(本作においては佐清や珠世)が示せていないのではないか、と感じました。
 「佐清も珠世も、結局『犬神家の一族』だったね……」では、横溝が描こうとしたものとはある意味で逆のものとなってしまうのではないでしょうか。
 横溝は新しい世代に希望を持ち、若い世代の、そのような「家父長制」からの脱却を作中で暗示しました。
 また、横溝正史の作品には、陰惨な話でもラストは希望が見える、という作品があり、『犬神家の一族』はそのような作品のひとつです。

 脚本の方(小林靖子さん)は、原作や他の作品も読み込んで本作に当たられたでしょうし、それらの要素を「読み取れていなかった」わけではなく、「読み取れたが、あえて省いた」ということになるのではないでしょうか。
 現代劇としての『犬神家の一族』は、それらの要素を除いた形で出来上がり、好評を博しているのでしょう(それらが「現代の価値観に則していない」、と判断された、ということもあるのかもしれません)。
 別にそれに対して異議があるわけでもなく、本作は『犬神家の一族』の新たな側面を描き出したものだと思います。

 いち横溝ファンとしては、このドラマ版を機に原作を手に取られる方が増えるといいな、という気持ちです。

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