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【短編小説】ぼくのうしろにはきみが立っている④

「おはようございます」

ぼくは1週間休んでいた会社の事務所ドアを開けながら、少し控えめにあいさつをした。インフルエンザで休みを取っていた事になってはいるが、濃厚すぎる1週間のために嘘をついていたわけだから、多少の罪悪感があったからだ。正直、この会社に勤め始めてこんなに連休を取る事は、年末年始休みの時くらいなものだ。

「お、大丈夫か?」

昨日電話をくれた直属の上司が、少し離れた席から声をかけてくれる。ぼくは上司の元へ向かい、一礼をした後で迷惑をかけた事を詫びた。顔を上げた時、上司はジッとぼくの顔を見ている。たぶん、数秒だが、ぼくにはすごく長い時間のように感じた。なぜぼくを見つめるのか。霊感でもあるのか、そんな事を勝手に考え始めていた。正面と横から視線を感じる。

「大変だったな。顔色も良さそうだ。またがんばってくれな」

上司はそう言うとニッコリと微笑んでくれた。何も珍しい病気から復帰したわけではない。インフルエンザだ。しかも、その理由すら嘘だ。ぼくは先ほどまではその嘘に罪悪感を感じていたわけだが、今は隣の存在の事がバレないのかどうかで頭がいっぱいだった。

再度一礼をして、自分のデスクに腰掛ける。すでに疲れていた。デスクの周りには5人のメンバーがいる。課長がいて残りの4人は役職者ではない。ただ、ぼくが1番下のポジションだ。我ながら思うが、仕事ができないタイプではない。向かい側にはわりと仲のいい男性先輩、左横には女性先輩がいる。まだ、ぼくの課のメンバーは来ていない。各デスクの拭き掃除をして、朝行う掃除をいつも通りにこなしていた。鼻歌を歌いながらついてくる幽霊を除けば。

掃除をしている最中、次々と社員が出勤してくる。みんな、ぼくに一声かけてくれる。心配する声、運が悪いなぁ、と言う声など様々だったが、ぼくの左隣の女性先輩が出勤してきた時だった。

「あれ、陽介くん、おはよう。もういいの?」

と声をかけられた。大丈夫であることと、迷惑をかけたことを伝える。ちょうど課長のデスクを拭き終え、彼女のデスクを拭いているところだ。

「いつもごめんね。ありがとう」

そう言って彼女はパソコンの電源をつけ始める。掃除用具を給湯室へ戻しに行く時、幽霊はぼくに話しかけてきた。

「あの女の人、ありがとう、が言えるのはいい女だね」

誰だ、おまえは。どこ目線なんだよ、と思いながらぼくは軽く右手を上げて答える。給湯室へ用具を戻し終えたぼくは、喫煙室へ向かう。ありがたい事にこの会社には喫煙室がある。給湯室からコーヒーを持ってきていたぼくは喫煙室で煙草に火をつける。他の社員たちも徐々に集まってくる中、話題はインフルエンザ。最初は恒例のその会話だが、すぐに談笑に変わる。やっと仮病の呪いから解かれた気分だ。そして、もうひとつありがたいのは、煙草の煙がかなに影響しない、ということ。

朝のルーティンを終えて自分のデスクに座る。それとほぼ同時に向かい側に座っている先輩から声をかけられる。

「悪い、この見積書、処理おいてくれないかな… 今日はもう外勤に行かなくちゃならないんだよなぁ…」

ぼくには1週間休んでいたことによる影響は特になく、今日は淡々と事務処理しかなかったし、きっと休んでいたこの期間、先輩たちもフォローに回ってくれてたはず。ぼくは快く了解した。20枚くらいの見積書があったが、今日中に終わらない、という仕事量でもなかった。今日はこのあと夜にも予定がある。早めに仕上げてしまおうと思いながらパソコンと向き合う。カタカタとキーボードを叩きながらふとかなの方を見る。ぼくのうしろで壁にもたれながら体育座りをしている。

ぼくは昨日ぶりにひとつため息をついて、デスクにあったミスプリントを切り裂いた裏紙メモ帳に文字を書いて、持っていたペンをかなに見えるように自分の顔の横で振った。かなはちゃんと気づいてぼくの横に来た。

「(ヒマだろ?)」

メモ帳にはそう書いた。彼女は答える。

『仕事してる姿見てたら、そうでもないよ』

横目で彼女の顔を見てみるが、意外と笑顔だった。続けてペンを走らせる。

「(幽霊も大変だな)」

『キーボード、ぜんぜん動いてないけど、仕事進まないよ?』

思わずハッとした。たしかに。コミュニケーションを取るには最適だと思ったが、これは仕事が進まない。ぼくはメモ帳の上にペンを置いてまたキーボードを叩き始める。かなはフフッと笑いながら、鼻歌を歌いながらまた定位置に戻っていった。そのまま会話もないまま、ぼくはひたすらにキーボードを叩き続けていた。

かなに指摘を受けてからかなり集中して仕事をする事ができた。20枚あった見積書の半分は処理できた。このスピードなら夕方には終わってる。ぼくは少し安心して両手を上げ、背もたれに体を完全に預けようとしたその時だった。彼女の鼻歌が何なのかわかった。

「マリーゴールドか!」

『ピンポーン!』

「え?」

え???

両耳から両音声が聞こえた。気づいた時、背もたれに体を預けきったぼくの顔は左側を向いていた。その速度たるやもはや、音速であっただろう。しまった。

「マリーゴールドの季節には、まだ少し早くない?というより、陽介くん、マリーゴールドが好きなの?」

左側にいた女性先輩から突っ込まれる。そりゃそうだろう。頭の中はこの絶望の状態からどうやって逃れるのかを懸命に模索していた。

「は… はは… 母の日に… 今年の母の日は、マ… リーゴールドに、しようかなと思っ…て」

ゴクリと唾を飲み込みながら、なんとか言い終えた。

『おかあさん、マリーゴールド好きなの?』

かなが横に来てぼくの顔を覗き込むように口を挟む。笑顔かどうかはわからないが言い方が笑顔だ。黙ってくれ。なにより、おまえのせいだろう。

「おかあさん、マリーゴールド好きなの?」

先輩も同じ質問を聞いてきた。異世界に飛ばされたような気分だ。口が動かない。

「でも、母の日もまだ先だよ?」

先に先輩から話しかけられて本当に助かった。なんとか動けて、一言だけ返せた。

「ですよね…」

そう答え終わった瞬間、ゆっくりと右を振り向く。デスクに肘をついてニッコリと笑ってる幽霊の目をじっくりと睨みつけてやった。そして、デスクにあったメモ帳に殴り書きでメッセージを伝える。

「(絶望!)」

『マリーゴールドにもそういう花言葉、あるみたいだよ?』

ニコニコしながら幽霊はぼくに微笑むが、ぼくは心中穏やかではない。今日、2度目のため息をついて、メモ帳に最後のメッセージを書き、ペンを軽く投げる。彼女もその文字を確認して、また定位置へと帰っていった。

「(最悪の花だな!)」


それからはスムーズに仕事も進み、見積書の処理も終わった事を先輩に伝え、今日という復帰1日目を無事、終了する事になった。鼻歌事件を除いては。

外に出たぼくたちは、待ち合わせ場所である居酒屋へ向かう。勤務先から歩いて20分程かかるが、ぼくはバスには乗らずあえて徒歩で移動する事にした。

「気を抜いたら、つい話しかけちゃうね」

ぼくは横にいるかなに話しかける。

『なかなか大変そうですねぇ』

笑いながらそう答えられた。これからみんなと飲み会だというのに、先が思いやられる。しっかりしなくては、と自分の意識を改める。

くだらない話をしながらぼくたちは待ち合わせの居酒屋の前に着いた。予約されてると思うという事をお店側に伝えると、個室へ案内される。引き戸を開けると驚いた事に、すでに全員集合していた。

『うわー、緊張してきた…』

かな、それはこっちのセリフだよ。

「おつかれー!」

「久しぶりだねー!」

という声をかけられたが、本当に久しぶりだ。久しぶりと言っても1年半くらいぶりだが、それぞれの顔は全然変わらない。

「なんだ、みんな、全然変わらないじゃん」

ぼくはそう言ってオシャレな長方形テーブルの、いわゆるお誕生日席に座らされた。左側に女たち、右側に男たちが陣取っていて、そんなに大きくないため全員の声もちゃんと聞こえる。早速、全員で飲み物を頼んでしばし談笑する。かなは笑顔で、時折フフッと笑っている。飲み物を注文してから乾杯まで、そう時間はかからなかった。

「1年ちょいぶりか?」

ぼくは何気なくそう問いかけて、飲み物を飲む。全員がこちらを向いて、この会に誘ってくれた健太から想像もしない答えが返ってきた。

「おれたちは… ついこの前、会ったばかりだよ。おまえ、お通夜も葬儀も来なかっただろ」

『マジ?陽ちゃん、ヒドくない?まぁ、引きこもってたんだもんね』

一気にその場の雰囲気が変わった。そう言われてみればそうだが、人間にも幽霊にも責められて、逃げ道がない。

「あー… そう… だな」

「わからないでもないけどね」

左側の女性陣の奥側に座っていた優子がフォローしてくれた。かなの1番の仲良しだった女だ。続けて追い込みをかけてきたのがその隣にいた美香だ。

「でも、かなが1番仲良かったのって陽介でしょ?付き合ってるんだと思ってたもんね。あまりにも仲良いから聞いた事なかったけど」

「わかるわかる」

女性陣は盛り上がっていた。ぼく以外の全員が酒を飲むペースが上がってくる。重たい雰囲気のまま話が進んでいく会ではなかったが、公開処刑のようにぼくに対しての意見が飛び交う。

「おれは彼女がいたから、おまえらが付き合ってるかどうかを気にした事なかったけど、男女の友情なんてないと思ってたから、そういう面ではおまえと前田はお互い意識してるんだと思ってたけどな」

右側奥にいる進一が口を開く。たしかに進一はある日突然彼女ができて、ずっとぼくたちといたわけではないけど、遊びに行く時はだいたいいた気がする。全員が進一の彼女に会った事もある。バイト先で出会ったんじゃなかったかな。

「そういう進一は、彼女とどうなの?」

ぼくは少し話題を変えてみた。彼らにはわからないだろうが、いなくなってしまった人の話をしているはずなのに、ぼくの横にはいるのだから、その時の気分は正直、複雑だった。かなはぼくの横で無言を貫く。

「今も付き合ってるよ。何もなければ結婚まで行くだろうなぁ」

なんて堂々とした態度なんだと、感心してしまう。残りのメンバーも、おぉ、と感心した声を上げる。そして、健太のこの一言から展開が変わる。

「おれなんて、かなに振られてるからねぇ」

「はぁ?」

ぼくは驚いた。好きだっていう相談は受けた事があるが、告白したなんて話聞いた事がなかった。

「え?健太、そんな事聞いてないぞ?」

健太はぼくの質問に間髪入れず、返答してくる。

「わざわざ、振られたんだけど、なんて報告するかよ」

無意識にかなの方を見る。下を向いていた。美香がそこでノってくる。

「そのあと、わたしに告ってくるとか、こいつマジありえなくない?」

一瞬、個室が笑いにつつまれる。かなも驚いたように美香を見る。美香が続ける。

「ま、そのありえない男と結婚したんだけどね」

「え?」

『え?』

ぼくとかなの声が被った。ぼくは美香の方から健太の顔へと視線を変える。健太は酒か照れなのか、赤くなった顔をこちらに向ける。

「かなに告白したのなんか何年も前だぞ?美香に告ったのは大学卒業の少し前だよ?よくない?」

そう言ってグラスをグイッと飲み干す。ぼくはしばらく驚いていた。かなは拍手している。そのあと、健太は決定的な一撃ぼくにくれた。

「大学卒業の前にさ、もう会わなくなるかもしれないのに後悔したくなかったていうのかな、陽介はどうなのよ?」

「はぁ?誰でも良かったわけ?」

健太と美香の夫婦ゲンカのようなものが始まったが、ぼくの耳にはあまり届いていなかった。ある考えに行き着いていたからだ。


もう会わなくなるかもしれない


そんな事、考えた事がなかった。毎日起きている事は明日も、明後日も、そしてこれからも続くものだとずっと思っていた。でも、現に健太の言う通り、それが現実になった。夫婦漫才の笑い声を裂くようにぼくは呟いた。

「おれは…」

全員がこっちを向き、静寂が訪れる。

「おれは… あいつが死ぬなんて、考えた事もなかった。大学出ても疎遠になるなんて、考えた事ない。おれもあいつも、いつかは仕事して、結婚して、別々の人生を歩んでる未来を想像した事なんてなかった…」

テーブルに両肘をつき、頭を抱えていた。いつの間にか、涙が溢れていた。静寂が続く。

「健太からメールが来た時だってそうだ。卒業して1年経つのに久しぶりに連絡が来て、まだ友達だったんだって思ったし、連絡くれた事はうれしかった…。みんなが今もふつうにいるって事が当たり前だと思ってた…。」

ぼくが顔を上げたと同時に溢れていた涙が流れ落ちた。優子も泣いていた。重苦しい雰囲気と、誰も言葉を発しない空気を裂くかのように、吐息をふぅっとひとつ。進一がぼくとは反対側のお誕生日席にある、居酒屋のメニューと調味料などをテーブルから下ろし、端っこに追いやる。

「前田って、何飲んでたの」

ぼくも含めて、全員がお互いの顔を見回す。

『ファジー… ネーブル…』

静寂がかなの存在を消していたが、さっきまで笑顔で拍手していたかなを見つめる。彼女もぼくを見つめている。

「ファジーネーブル… かな」

ぼくは久しく見ていなかった天を見上げながら呟く。進一は店員にそれを頼んで、先ほど空けてくれたお誕生日席にそっと置く。それを見てか、かなは空いたお誕生日席に向かって歩き、健太と進一をすり抜けて座る。2m範囲内だった。両手でグラスを持つようにそっと手を添える。

「わたしも」

優子が口を開く。

「… わたしも、かなが亡くなったって聞いた時、信じられなかった…。でも、仕事でお通夜には行けなかったけど、お葬式でかなの写真を見た時に、これは現実だって思って…」

ここから先は優子も涙で言葉にならない。進一以外の全員が涙を流している。続きを代弁するかのように美香が口を開く。

「わたしも、健太に告られてよかったと思ってる。今はお互いが、お互いを忘れないでいよう…。かながそれを教えてくれた気がするから…」

それを言い終えると美香の顔は涙でグシャグシャになっていた。ぼくはかなの顔を正面からジッと見つめた。彼女は笑顔でみんなの事を見たあと、ぼくの顔を見つめ返してくる。ぼくはかなのファジーネーブルをテーブルの中央にずらす。

「届かねぇよ」

そう、かなに伝えた。そのあと、全員が察してくれたのか、無言で中央のグラスに乾杯をした。かなは身を乗り出して、笑顔で、両手でグラスをつつむ。


久しぶりに集まった、居酒屋での泣きじゃくり会は終わりを迎え、それぞれが帰路に立つ。

「またね」

「気を付けろよ」

「仲良くな」

各々がそれぞれの言葉を言って別れる。

「歩いて帰っても30分くらいで帰れるんだけど、家に帰ったら話したい事があるんだけど、寝る前に時間ほしいからさ、タクシーに乗ってもいいかな?」

かなに尋ねた。

『うん。あたしも言わなきゃいけない事、あるかも』

ぼくはタクシーを1台捕まえて、早々と家に帰る。もちろん、車内は無言だ。自宅に着いたあとは、いつも通り、コーヒーを自室へ持って行き、スーツからジャージに着替える。22時ちょっと前にはお互い、定位置に座ったと思う。ぼくはコーヒーを一口飲み、煙草に火をつける。

「あのさ」

ぼくはそう言ったあと、先ほど吸い込んだ煙を吐き出した。

『陽ちゃん、先にあたしから話していい?』

いつになく、真剣な表情に戸惑いを感じた。部屋中に広がった煙草の煙が霧状に広がり、かなをより幽霊に感じさせた。

【⑤へ続く(※次回、最終話)】


※この物語はフィクションであり、登場する人物名・地域・団体名は関係ありません。

















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