【短編小説】ぼくのうしろにはきみが立っている①
長い冬が終わり、春の訪れを知らせるかのような暖かい朝日がまぶしく部屋を照らす。ぼくは1週間もの間、部屋はおろか布団にこもっている。仕事先には「インフルエンザによる自宅療養」ということになっている。それを証明しなくてもいい職場環境に感謝している。
「あんた、そろそろ、会社にもかなちゃんにも会いに行った方がいいんじゃないの?」
母親だ。ふぅ…っとため息をついて勢いよく布団をどける。
「…ドア開けるなら一声かけろよ…」
かけましたけど、みたいな顔で母親は1階のリビングに戻っていく。
さすがに1週間、何もせずに寝たままだったからだろうか、体が重い。ジャージ姿のぼくは髪の毛もボサボサのままリビングに降りていった。テレビではワイドショーがつけられており、その音しか聞こえてこない。母親しかいない。
「コーヒーある…?」
リビングのソファーにドッと腰かけ、天を仰ぐように背もたれに背中をつける。耳に入ってくるワイドショーでは芸能人の結婚や桜の開花予想などを報じているようだ。たった1週間見ないだけで世界はこんなに変化するのか、と思わせるようだ。
カチャ。ソファー前にある小さなテーブルにコーヒーを置いてくれた母が話しかけてくる。
「ご飯は…?」
そうか。この1週間、本当に何も食べなかったのか。そんなに長い間何も食べなかったのに食欲はない。そして、布団にこもっていた期間が長かったとも感じられない。あっという間に感じる。
「…いや、いいかな。あ、味噌汁でもあるなら」
最後まで言い終わる前に母親はキッチンに向かう。味噌汁くらいならあるのだろう。いや、ぼくがいつでも食べられるように全てそろっていたのかもしれない。1週間何も食べなかったのなら食べ物をいきなり腹に入れるより、味噌汁くらいから始めようと思ったのもそうだが、食欲が本当にない。
味噌汁をおかずに、コーヒーを飲む。何とも不思議な光景ではあるが、これが今できる現実なのだ。茶碗とカップを台所へ置きに行こうとしたその時、携帯が鳴り出した。会社からだ。
「もしもし、えぇ、おかげさまで明日には行けると思います。ご心配をおかけしました。はい、失礼します」
そう言って電話を切った。えらく心配してくれていた。会社で本当にインフルエンザでも流行り出したのだろうか。勢いとはいえ、明日から会社には復帰する事になってしまった。確かにずっと休んではいられない。改めて台所に食器を置く。
「…かなのところへ行ってくるよ」
そう母親に告げてぼくは自分の部屋へ戻った。特に気を使ってフォーマルな格好をしたわけではないけれど、ボサボサの頭をなんとかおさめてジーンズにトレーナー、ジャケットにマフラー。遠くへ出かけるわけじゃないけれど防寒にしては少し暑いくらいだったかもしれない。
「行ってくる」
そう言いながら階段を降り、リビングから玄関に向かう途中、母親からもよろしく伝えるよう言われた。
自宅を出た瞬間、まるで朝日とは違う暖かさを感じたけれど、実際には少し寒かっただろう。だが、そんな事も考える時間を与えてくれないほどの距離で目的地へ着いた。2軒隣だ。前田、という表札の前でなかなか踏み出せないでいたけれど、インターホンを押す。
「はい、あ…あ、ちょっと待ってね」
ぼくが何かを言う時間を与えない返事がインターホン越しに聞こえた。便利な時代になったものだ。ボタンを押すだけで名前も何も言わなくても誰か判別できるようになったのだから。そりゃ、詐欺にも引っかかる時代になったもんだ、などと呟いていた。
玄関が開く。
「よく来てくれたわね…。待ってたのよ…。どうぞ… 」
そう言って、かなの母親はぼくを家の中へ招き入れてくれた。ダイニングには4人掛けの食卓テーブルがあり、リビングにはソファーがあってテレビがある。それが玄関からリビングの扉を開けると一望できる。よくある家庭の風景だ。けれども1ヶ所、リビングの一角に仏壇が置いてある。明るく笑うかなは、きれいな額縁に飾られた油絵のように見えた。
「かな、ごめん…。遅くなっちゃったな… 」
きれいな油絵の写真はみるみる内にぼやけていった。ぼくは手を合わせ、震えながら泣いていた。
彼女とは同い年で幼稚園も小学校も一緒だったにもかかわらず、面識はほとんどなかった。親同士が話す、そんな程度で関係のまま中学・高校が一貫校だったため、クラスも同じになった事から親しくなった。特に中学3年から亡くなった1週間前までは恋人のように仲が良かった。狭い地域内だったために、大学も一緒だった。両親公認でお互いの自宅を行ったり来たりしたし、出かけたりもした。就職活動をして社会人になってからも、会社の愚痴なんかを言い合ってた。
けれど1週間前、かなは交通事故で死んだ。飲酒運転の車に跳ねられたのだ。その夜かなは、会社の同僚たちと女子会の帰りだったそうだ。他の同僚たちも重症になった人もいたらしいが、彼女だけ帰らぬ人となった。
それを聞いたぼくは、あまりのショックで1週間もの間、家を出る事もできず、彼女にお別れのあいさつもできないまま今日まで過ごしてきた。ぼくが何かできたわけではないが、悔しくて悔しくて気持ちが追いつかず、どうする事もできなかった。
「…おばさん、来るのが遅くてごめん… かなを…かなを守れなくてごめん…」
なぜかそんな言葉を彼女の母親にかけていたが、そんなぼくを見て首を横に振りながら涙ながらに
「もしよかったら、たまに来てあげてね…」
ぼくは声にならないまま、首を縦に振ってうなずいた。
時間にして10分程度しかいなかったと思うけれど、まるで何時間も経ったかのように感じた。
「また、きます…」
なんとか泣くのをこらえながら、彼女の家を後にした。
そのまま真っ直ぐに帰路にはつかず、近くの公園でホットコーヒーを買って少し落ち着いてから家に帰ろう、そう思っていた。公園のベンチに座り缶コーヒーを開けようとする。プルが涙で歪む。何度も開けようとしたが爪だけが引っかかる。カチッカチッという音が響く。ひと呼吸置いて、ポケットに入っていた煙草をつかんで1本を取り出す。ライターはすぐについた。煙草の煙が肺をいっぱいにして胸のもやもやとともに吐き出す。コーヒーを開けることができた。
『人の家ピンポン押して、そりゃ詐欺にも合うわ…って、インターホン切れてないかもしれないのにヒドくない?』
コーヒーを一口飲む。また煙草を吸い、吐き出す。
『煙たくなくていいね』
ふと、顔を上げ正面、左右を見渡してみる。
『残念。うーしーろー』
その声に導かれたのか、まるでホラー映画のような気分でうしろを振り返ってみる。
「……え?」
彼女が、かなが立っている。何が起きているのか理解できない。公園の地面にはさっきまで持っていた缶コーヒーが転がり、地面が黒く染まっていく。ぼくはついにおかしくなってしまったのかと思い、さっき振り向いたスピードの2倍はあろうかという速度で周りを見渡した。
「……え?」
再び、同じ言葉しか出てこなかった。
『まぁ、そういうリアクションになるよね…』
彼女の声だ。しかも、本当に目の前にいてしっかりと話をしている。1週間前のかなだ。
「…かな、なんで……」
本当に言葉が出てこない。何がなんだかわからないけれど、会話のキャッチボールはできているようだ。
『どうしてかはわからないけど、今、あたしね、陽ちゃんのうしろにいるの』
陽ちゃん。ぼくが陽介だから彼女はぼくを陽ちゃんと呼んでいた。
落ち着け。落ち着くんだ。深く息を吸いながら目を閉じる。深く息を吐いた後、目を開ける。やっぱりいる。こちらから話しかける前に彼女が口を開く。
『あのね、周りの人からはあたしは見えないし、あたしの声も周りには聞こえない。つまり、陽ちゃんにしか見えないし聞こえないから、ずっとあたしに話しかけてたら、おかしい人になっちゃうからね?』
ニヤニヤと笑う彼女に反して、ぼくは驚きと恐怖の半々くらいの立ち位置にいるようだ。ひとつわかったのは、このまま話していたら、確かに周りからは変態扱いだろう、という事だけだった。
「と、と、とりあえず、うち、行くか…」
『うん、いいよ』
新しいナンパか、これは。しかし、何がなんだかわからないまま外にいても落ち着かない。1度、自宅に戻って落ち着いて整理しよう、そう思って彼女を自宅に誘った。
公園から自宅まではさほど離れていない。もちろん、かなの自宅前も通る。10分ちょっと程度だろうか、歩いて自宅の前にたどり着いた。その間、お互い無言だった。
かなは間違いなくぼくといる。これは一体何なのか。わからないまま自宅の玄関を静かに開けた。
【②へ続く】
※この物語はフィクションです。登場する人名・地域・団体名は関係ありません。
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