山本美絵 "オナモミ" [2001]
女性シンガーの1stフルアルバム。
1990年代の終わりに宇多田ヒカルと椎名林檎とCoccoが業界に与えた衝撃はあまりにも大きかった。宇多田ヒカルは後のR&Bブームの切欠を作ったが、後者二人はまた違う潮流を作り出した。それは「個性派女性シンガー」の潮流である(そしてこの潮流は後に鬼束ちひろのヒットという追撃を以て確定路線になる)。
先述三人の衝撃冷めやらぬ2000年にデビューした山本美絵も、この流れの恩恵を受けてデビューできた歌手のひとりだろう。帯の「究極のトラウマ系歌姫」なる謎のキャッチコピーからは、やはり彼女を椎名林檎やCoccoのラインに乗せようとしていた(トラウマ云々の言及からしてCoccoのラインを意識していたのか…?)痕跡が見て取れる。
しかしながら山本の持つ存在感は、その二者とは全く違う。
takeimaiなる人物(調べたところによると当時山本が所属していたAmuseにエンジニア・アレンジャーとして在籍していた人らしい)によって作られたトラックはクラブミュージックの路線ではあるが、初期DTMの安っぽい音色をむしろ前面に出したアレンジが奇妙だ。2001年というリリース時期を考えるとこの音作りは相当尖っている。
そしてそこに乗るのは山本とtakeimaiが共同で作り上げた捉えどころの難しいメロディの数々、そして山本の歌だ。
山本の歌は自らの美しい声の響きを最大限ネガティブな方向に作用させた異様なスタイルで、曲によってはまるで精神を病んだ民謡歌手のように聴こえる。
イントロを一聴した時点で想定されるジャンル―クラブミュージックやJ-POPのエグみの部分だけで構成されたような音楽であり、もはやこの時点で既に誰に勧めればいいのかすらわからない。
そのエグみの塊をキャンバスにして描かれる風景は、どれも暗雲が立ち込めている。
建前としての言葉と本来の精神のギャップに疲弊していく「○○ゴッコ。」、猫の轢死体の腐敗に人間の鈍化を見出す「猫」、悲しみと強がりが昆虫の共食いによって狂気へと結ばれる「トモダチ」、カーネル・サンダースの人形と愛しあう女性を描くデビュー曲「カーネル」、無職の女性の生活の一コマを生々しく切り取った「ある晴れた日に」、ライン工の仕事に就く主人公の精神が壊れていく「7:15」(アルバムの曲順でこの2曲が隣り合ってるのがまた嫌らしい)、家に侵入した蟻の大群を退治したり眺めたりするうちに自らに絶望する「アリの休日」。
山本が取り上げるモチーフに共通しているのは「一般社会に馴染めない存在」であり、更に彼女はその「馴染めない存在」の中でも特に鋭角で、安易な共感の俎上に乗せられることすら拒否するような部分を拾ってみせている。なかなか類似するものが見当たらない表現者であるが、強いて言うなら『coup d'Etat』の時期のsyrup16g / 五十嵐隆が近いだろうか。
そして歌詞を拾いながら曲を聴いていると、今作のチープなアレンジが、山本の存在を絶対的に中心に置き、強制的に聴かせるための意図的なプロダクションであることがなんとなくわかってくる(その割にはアルバムの前にリリースされた各シングルのカップリングには謎のインストが入っているようだが…)。
そんな殺伐とした今作でひときわ印象に残るのが、一人暮らしの荒れた部屋で家族から渡されたサボテンが枯れている様子に自らの境遇を重ねる様が今作で一番感傷的なメロディに乗せられる「外は雨だよ」、やはりどこか感傷的なトラックの上で友人と二人で過ごした暗い青春時代へのレクイエムを歌い上げる終曲「17」、この2曲のなかに確かにある素直なセンチメンタルとエモーショナルな感触だ。この二曲を聴けば、山本が単なる「鬱」系のシンガーと一線を架すのは、精神の暗がりや狂気を露悪的にひけらかすのではなく、深い内省と小さな確信を持って拾い上げて掲げるところだ、ということがわかるはず。
山本はこの後にアルバム未収録のシングルを一枚、そしてプロデューサーを変えたミニアルバム一枚(入手困難っぽくて戦々恐々としている)をリリースして音楽業界から姿を消す。ネット上にある映像やインタビューを見ていると、山本自身も曲の主人公のように「馴染めなさ」を抱いていた人物なのかもしれない、と想像する。彼女は幸せに暮らせているだろうか。
あまりに癖が強く、誰に勧めればいいのかわからないアルバム。しかしその癖の強さ及び知名度の低さとは裏腹に、山本の音楽は今でも一部で熱狂的な支持を得ている。
もしかしたらあなたもこの表現を必要とする者の一人かもしれない。