『フェイクドキュメンタリーQ』全作レビュー12・「Q12:ラスト・カウントダウン」
Q12:ラスト・カウントダウン - Last Countdown
(他タイトルすべて同一)
誰かが作った映像を見るということ。
12/11/10/9/8/7/6/5/4/3/2/(1)
私が最も好きな回である。それどころか、私が人生で視聴した映像作品の中で、最も印象に残っているものの一つに数えられると思う。
そのせいもありこのレビュー企画最長の記事になる。容赦していただきたい。
なお、この回に関しては公開直後にふせったーを利用して多少突っ込んだことを書いた記事を二本書いた(完全にネタバレなので注意)。
「Q12:ラスト・カウントダウン」各映像のメタ的な特徴まとめ
Q12、あるいは『フェイクドキュメンタリーQ』に対する個人的な感想・考察
この記事と言及していることが被っている(これは意図的ではある、というよりもこの全作レビュー自体が「Q12、あるいは『フェイクドキュメンタリーQ』に対する個人的な感想・考察」をリライトしたいという気持ちがあり始めたものである)けれども、興味がある方はそちらも読んでいただくとして。
思えば、このシリーズはQ1の「フェイクドキュメンタリーを銘打った作品の中で映像を提供した制作会社がフェイクドキュメンタリーだと主張する映像が流れる」という入れ子構造によって、フェイクドキュメンタリーというジャンルの中の、作り手と視聴者の間にある「暗黙の約束」に揺さぶりをかけたところから始まっている。
果たして、その揺さぶりはここまでの11回の映像を見る上で、視聴者に多くの疑念と不信感、そして不安と恐怖を与えてきた。
「これは本当にフェイクなのか?」
シリーズの冒頭で投げかけられたこの問いに答えが出ることはないまま、視聴者は「ラスト・カウントダウン」を迎えることとなった。
この「ラスト・カウントダウン」、もはや異常としか言えない内容だ。
ナンバリングされた11もの「曰くつきの映像」が、まるで音楽チャート番組のランキングのようにカウントダウンする形で矢継ぎ早に流されるという前代未聞の構成は一種ムチャクチャですらある。
更に、その「曰くつきの映像」はどれもこれも異様なものばかり。
心霊モノDVDに応募されたものの採用されなかった投稿映像、番組表に載らなかった謎の深夜番組、苦情が殺到し回収されたヒーリングDVD、元夫から送られた謎の動画、テレビ局の倉庫に眠る心霊映像、病死した少年が製作したビデオアート…全てを書き出すと長くなってしまうのでここら辺にしておくが、いわゆるまともな「心霊映像」の類がひとつもない。
唯一9「ななみが帰ってきた」だけが心霊映像然としている内容だが、やはり前提となるシチュエーションが普通ではなく、素直に心霊系の映像として見ることは出来ない。
更に、これらの映像の「曰く」の方向性がものの見事にバラバラなのである。
至極現実的な理由を持った映像から都市伝説的な背景を持ったもの、いかにも怪談らしいおどろおどろしいエピソードが付随したもの、過去に映像にまつわるエピソードがあるもののその原因がイマイチ判然としないもの、果ては6「青空1」のような、何が何だかよく分からないものまである。
また、各映像の完成度が異常に高いことも特筆に値する。
全ての映像には制作年が割り振られているのだけれども、その製作年の映像―経年劣化、メディア媒体による画質の違い、あるいは映像の中にほのかに漂う時代感を見事なまでに再現している。…いや、もしかしたら再現ではないのかもしれないけれども。
そして言うまでもなく、今回の映像群は様々な疑念や不信感を視聴者に与える。
不信感という点で一番印象に残るのが8「荻原さん」で、音楽番組で流されたクラブでのイベントの映像(ドラムンベース・ジャングル系の海外DJなんだけどこれ誰だろう?)に「赤い男性の顔」が映っている、とされる映像なのだが、映像内でスローモーションかつ一時停止で見せられる箇所のどこら辺が「赤い男性の顔」なのかがイマイチ判然としないのである(これに関して興味がある方は私の過去ツイートを参照していただきたい。「荻原さん」を「萩原さん」と誤字っていてめっちゃ恥ずかしいけど…→1、2、3、4)。
映像そのものには「曰く」があるのでこの映像群にこれを入れた理由はある程度理解することが可能だ。
しかし、だとしても何故ここを一時停止して見せたのだろうか?
そもそも矢継ぎ早に映像が次々と流される(1本あたり1分半から2分程度)編集は、つまりそれが「映像を全編流していない可能性が高い」ことを示唆しており(9「ななみが帰ってきた」と3「DSCF0007.AVI」は例外的に元の映像を全編流していると思われる)、実際に4「目が合わないように」はテロップで映像の実際の尺が「10分ほど」であることが明かされている。
つまり、これらの映像には確実に作り手による編集が入っていることを意味している。
それは同時に、例えば映像の重要な部分が作り手によってカットされている可能性も示唆している。それをあえて疑わせるかのように、6「青空1」はビデオの映像にはそぐわない声色の男性の声が入った瞬間に、映像と音声がカットされる。
あるいは逆に、映像の「見せてはいけない部分」を視聴者に見せている可能性も並行して存在する。
他にも疑念・疑問は尽きない。
これらの映像の入手経路は?これらの映像に割り振られた12~2のナンバリングの意味合いは?そもそもこれらの映像を、一つの回に纏めた理由は?そしてこれほどの映像を所持している「作り手」の正体は?他の回との関連性はあるのか?
そして、これらの映像を視聴者に見せる理由は?
ここまで読んでいて気づいた人もいるだろう。
今回の内容は「フェイクドキュメンタリーQ」そのものではないか?
映像の入手経路が不明なのは今までの全ての回もそうだった。
映像を見せる理由が不明なのも今までの全ての回もそうだった。
疑念を抱きながら見る羽目になるのも、今作の作り手の正体がわからないのだって、今までずっとそうだった。
そして、映像に作り手の作為が入り込んでいた可能性…。
世に出る映像には、必ず”編集”という作業が入る。
例えば複数人の友達とキャンプに行き、帰ってから動画を作ろうと思ってカメラを回していたら、夕食の支度中に友達同士が軽い口論になってしまった場合。
その口論の映像は編集の過程でカットされ、動画には使われない可能性が高い。それは何故かと言えば、キャンプの動画の大半は「楽しいキャンプの思い出」を残すことを目的としているからだ。
「楽しいキャンプの思い出」というコンセプトを映像化するには、取捨選択によって”楽しくない部分”―つまりは映像を作るうえで都合の悪い部分を、視聴者にはわからないように削除する必要がある。
あるいは、編集以前の撮影の時点で、映像を作るうえで都合の悪い現実を撮影せずに”削除”することもできる。先の例に倣えば、口論が始まった瞬間にカメラの電源を切ってしまえばいいのだ。この点を鑑みれば、映像の”編集”は映像を撮影している時点で既に行われているともいえる。
しかし、これらの作業には作り手の作為が大きく入り込む危険性がある。実際そのような作為的な”編集”を映像に施す行為は、例えば報道の場などで度々問題になっている。
その基本を改めて確認した上で考えてみる。「フェイクドキュメンタリーQ」の編集はどうだっただろうか?
思えば、この作品の映像に「疑念」「不信感」を抱く要因の一つに、編集という要素があったと思う。「フェイクドキュメンタリーQ」の編集は、作り手が施す取捨選択を視聴者に対してあまりにあからさまに見せてきたからだ。
Q1やQ5、Q9などの回の最後に意味ありげに流される映像内では未使用となった箇所の音声、Q3の映像の不自然なカメラワークを言及せずとも強調する構成、Q5の心霊ドキュメンタリー的な編集が映像の大きな異変に言及しない違和感、Q4やQ8におけるカットアウト。その例を挙げればキリがない。
本来「見せたくないものをそれと分からないように削除する」ための編集という作業が、この作品の中では「この映像には見せていないものがある」ことを視聴者に向けて暗に言及するための手段として使われていたのだ。その奇妙な態度が、私たちにずっと不信感や不安感を抱かせてきたのである。
今思えば、Q11で「実際に放映されたテレビ番組の取材映像のカットされた箇所」が題材になったのは、今作において実に象徴的なことだったのだと気付かされる。
この「ラスト・カウントダウン」ではこの作為を隠さない態度をより前面に出すことによって、今までの回にもその態度が存在していたことを視聴者に改めて思い知らせるのだ。
更に「ラスト・カウントダウン」では、この今作の編集が持つ奇妙な態度を、「多数の映像を2分前後の短さに編集する」というかなり極端な形で出力した結果として、「フェイクドキュメンタリーQ」の作り手だけではなく「ラスト・カウントダウン」で題材となった各映像の作り手にも同様に作為があることが浮き彫りになっている。
なにせ、9「ななみが帰ってきた」、5「死者の声」、4「目が合わないように」、2「あなたは、春田君まであと何周?」…これらは映像の作り手が明らかに悪意を持っているのがわかるのだ。
特に2「あなたは、春田君まであと何周?」は「オカルト研究部の片隅にあったVHSにダビングされていた映像」という前提まで含めて、強い悪意の存在を感じる。
そしてこれらの映像の中に11「トラホンピータ」や6「青空1」といった意図が不明な映像、10「バタフライ・スコトーマ」や7「見てはいけないビデオアート」のような映像の視聴者に被害が及んだ映像が入れられることによって、それらの映像にももしかしたら悪意が内在したかもしれない、という疑念を抱かせる。
その疑念をまるで先読みするかの如く、「視聴した人の身体に異常が起こったという苦情が殺到し回収されたDVD」のタイトルに「スコトーマ」=”盲点”という言葉を使ってみせる。
そしてこの「フェイクドキュメンタリーQ」の作り手は、その悪意に気付いたうえでこれらの映像を編集し、私たちに見せているのだろうか?という疑念も同時に沸くのである。
と、ここまで書いたところで、「フェイクドキュメンタリーQ」の作り手だけではなく、その中で取り上げられる映像の作り手にも作為がある、という事実は、既にQ1に登場する”「この映像はフェイクドキュメンタリーである」と主張する制作会社”の存在によって語られていたことに気付いてしまった。
やはりこの回そのものが、縮小された「フェイクドキュメンタリーQ」そのものなのかもしれない。
そしてQ1で、”「この映像はフェイクドキュメンタリーである」と主張する制作会社”の作為に対して、「フェイクドキュメンタリーQ」の作り手がこんな疑念を投げかけていたことも改めて思い出すのである。
「これは本当にフェイクなのか?」
この世の映像の大半は、誰かに見せるために作られている。
目的は様々だし、視聴者が不特定多数なのか、それとも限られた人数なのかも様々である。
ただ一つだけ確かなのは、それらの映像は必ず誰かが撮影していて、その大半には編集が施されている、そしてそこには確実に映像を撮影・編集した人の作為が入り込む、ということだ。
つまり私たちは、常に映像を通して人の作為に触れているのだ。
もしもその作為の中に悪意があったら、私たちはその悪意を避けられるだろうか。そもそも、その悪意に気付けるだろうか。
この世の映像の大半は、誰かに見せるために作られている。
しかし作り手が何故私たちにその映像を見せるのか、その目的を完全に推測することは難しい。
それでも確実に分かるのは、”理由はどうであれ”それらの映像の作り手には「私たちにその映像を見せたい」という意志が必ずあるということだ。
なお、今回の映像のひとつ―2「あなたは、春田君まであと何周?」の一部が、「フェイクドキュメンタリーQ」の制作陣の一人である寺内康太郎監督の作品、『心霊マスターテープ』の冒頭に使用されていることも書かなければならないだろう。
かつてふせったーに投稿した記事で、私はこのように書いた。
今でも何故この映像を『心霊マスターテープ』の中で使ったのかの説明はないし、その理由を今もはっきりと言い切れる形で理解できたわけではないが、こうしてこのシリーズの全作と改めて向き合ったあとだと、『心霊マスターテープ』でこの映像を使った意味がほんの少しだけわかる気がする。
先ほども書いたように、2「あなたは、春田君まであと何周?」は「カウントダウン」の末尾に置かれているだけあって、映像の内容も、映像が持つバックグラウンドも、今作の中でもひときわ悪意を感じる内容である。
そうした悪意の存在を感じる「あなたは、春田君まであと何周?」の映像が、「ひとつの映像の作り手の悪意が他の作り手に伝染する」物語であるところの『心霊マスターテープ』に使われていることは、決して単なるファンサービスでは無かっただろうと、今ならそう思う。
「これは本当にフェイクなのか?」
これはQ1で発され、そして今作全体をずっと漂い続けた問いである。結局、この問いにはっきりとした答えはない。
今作の作り手はこの回の映像の末尾、再生が終わる直前のほんの一瞬だけ、その答えを匂わすような「何か」を言いかける。しかし、一瞬言いかけたそれを視聴者にはっきりと伝えることはしない。
そして私たちが言い切られないそれの意味合いを正確に理解することはとても難しい。
ただ、この「ラスト・カウントダウン」の本編の最後―2「あなたは、春田君まであと何周?」の終わり際、つまりオカルト研究部の片隅に置かれていたVHSに誰かがダビングした映像の上に更にダビングを重ねるようなかたちで、このシリーズで最も重要かもしれない「ある映像」が姿を現す本編のラストそのものが、もしかしたらその問いに対する答えなのかもしれない、と少し思う。
何故ならば、この映像の現れ方はQ1のそれと全く一緒なのだから。
最後に。
この「フェイクドキュメンタリーQ」、そしてその作り手には”映像におけるあらゆる恐怖表現を網羅しようとする”意志があるのではないか、というようなことを私はずっと思っている。
実際、ここまでの回を見てみると、その恐怖の方向性は見事にバラけている。かといってなんでも無節操に試すのではなく、例えばこのシリーズはジャンプスケア的なドッキリはほぼない(はっきりその要素があるのはQ10のラストぐらいか?)し、グロ表現もほとんど登場しない(むしろ今回の12「採用できない投稿映像」では、グロテスクになりかねないものにモザイクをかけている)。
この作り手が追求しているのは、あくまで「映像による恐怖」なのではないか。それはQ10の「あきらかに死体だと分かるものが出てくる」という状況に対する、人間ならだれでも抱く至極真っ当な恐怖感が、徐々に異常なものに変わっていく構成からも推測できる。
これはあまりにもメタすぎる推測だし、場合によっては無粋になり得る内容なので、ここまでのレビューではあえて書いて来なかった。
しかしこのQ12を前にした時に、この推測に対する言及を避けることは出来ない。何故ならば、その意思が事実だったと仮定すると、この回はその意思の総決算のような内容だからだ。
そしてこの推測があれば、前回Q11のステーキの飯テロ要素も、そして今回の6「青空1」の「全く面白くない滑りまくりの漫才」というある意味怖い映像も、あらゆる恐怖を網羅するためのピースとして扱うことができるのだ!!!!!
と、多少ふざけさせていただいたところで(※フリみたいになっちゃったけど「”映像におけるあらゆる恐怖表現を網羅しようとする”意志があるのではないか」という推測は真面目な意見です)この「フェイクドキュメンタリーQ」全作レビューを締めさせていただきます。最後まで読んでいただきありがとうございました。
あ、「フィルムインフェルノ」についても必ず書きます!
トラホンピータ!(締めの挨拶)