『回路』: 結局、私たちは行けるところまで行くしかない
youtubeで無料公開されていた黒沢清監督『回路』を見ました。
さっき人生で初めて『回路』を見終わったばかりです。いいでしょう。
これがエラい刺さってしまったので、その衝撃を忘れないうちにnoteに書き留めておこうという記事です。
右クリックでお気に入りに登録、ダメだったらプリントスクリーン。
21日までyoutubeで無料公開中ですよ!
無料公開終了後はamazonプライムとかで見れます
全体的には割と難解な話である。
前半ではインターネットを媒介にして何かしらの良からぬことが進行している、ということが曖昧に表現されていく。
これが異常に断片的なのである。
幽霊が出てくるはっきりと怖いシーンがたくさんあるのだけれど、一方で全くキャッチーではない。とりわけ有名な飛び降りシーンの前後は、死生観をベースにした「分かるようで分からない」話がずーっと続く。登場人物の発言もいちいち示唆的・哲学的。
そして難解パートを抜けると、「10秒後にろくでもないことが起こる」とはっきりと分かってしまう不吉なアングルとその結果がひたすら連打される無茶苦茶なゾーンに突入してしまう。
ここも結構ぶっ飛んでいて、生理的に気持ち悪い映像・展開だけがただただ続く。
さらにこの映画、全体的に間の細かい部分をかなり豪快にすっ飛ばして編集されており(シーンが変わると特に説明もなく数時間ぐらいの時間が経過していて、登場人物がいきなり違う服に着替えていたりする)、集中して見ていないと話が分からなくなる。かなり賛否別れている映画、というイメージだったけれども、確かにこれは合わない人は合わないかも。
ここまでは何となく私が事前に仕入れていた情報と合致していて、単純にホラーとして楽しんでいた。
実際、ホラーとして楽しめる要素は大量にある。幽霊がマジでいたらこの歩き方かも…と思わせる怖すぎる幽霊の歩行、邦画史上最悪のASMRと化する「助けて」、あまり聞きたくない寄りの生活音ばかり集めた音響、とにかくホラーとしての完成度が高すぎる。また、「幽霊に会いたいですか?」をはじめとしたモニター内で展開される映像表現の数々は近年のホラー作品の源流として楽しめる。
また、序盤の会話シーンにおけるあからさまに後録りの音声を被せる(よく見ると最序盤のシーンではまともにリップシンクもしていない)演出や、一瞬ながら車窓外の光景のバランスが異常に気持ち悪くて印象に残るバスの乗車シーンは、何かが起こる前の日常の描写にもかかわらず強烈な不自然さと不吉さを漂わせており、これから展開される物語が決して明るいものではないことを強く示唆していてかなり印象に残った。
だが、後半に向かうにつれ映画のストーリーはどんどん壮大なものになっていき、一般的なホラーからは逸脱していく。
インターネットの回線を通して幽霊がこの世に溢れ、人々がどんどん姿を消し、最終的に世界の形が大きく壊れて取り返しのつかないことになってしまう。
今作のキーパーソンは間違いなく加藤晴彦氏が演じる川島亮介だ(エンドロールで加藤晴彦氏が一番上なのを見るに実は今作の主人公らしい。映画内では麻生久美子氏演ずる工藤ミチの存在感が強いし、登場順もミチ→川島なので気付き辛いが…)。
川島は極めて一般的な大学生として描写されている。恐らくインターネットを導入したのは単なる好奇心で、パソコンのことは何も分からない。暇が出来たらゲームセンターのコインゲームで時間を潰す。会話の相手を探すために電話をかけてみるが、友達は捕まらない。手持無沙汰になったときには、特に興味もない雑誌に手を伸ばしてみる。
しかし彼は、奇妙なサイトについて相談したことをきっかけに、大学で唐沢春江という女性(演じるのは小雪氏)と知り合う。
不吉な影が世界を覆っていく中で、不器用なやりとりを重ねながら死に怯える春江に何とかして寄り添おうと試みる。
春江が「向こう側」に引き込まれ、世界が本格的に壊れても、彼は偶然出会ったミチと共に春江を探し回る。
そして春江を失い、自らもまた死者の影に侵されるが、それでも(文字通り)最後までミチに寄り添う。
壊れてしまった世界で混乱していても、幻だと断じていた死の影が幻でなかったことをその身で体感してしまっても、しかし彼は生きている人間として最後まで抵抗する。
これは終盤、川島がふたつのシーンで繰り返し発するセリフである。
そして冒頭と末尾に一瞬顔を出す、生存者を集めて航海を続ける役所広司氏演じる男性が口にする言葉でもある。
ぶっ壊れた世界で「行けるところまで行く」と言い切る川島は、結局のところ私たちがこの世でやるしかないことをやっているだけだ。
数々の創作物によって輝かしく取り上げられた「独りじゃない」という言葉は、今作では生来から抱いていた死の恐怖にほだされ「向こう側」に魅入られた春江によって、強くネガティブに響く形で発語される。その春江の姿に、私は承認欲求と共に希死念慮を増幅させる若いSNSユーザーを重ねてしまった。
そのせいだろう、余計に「行けるところまで行く」という、何の根拠もない、しかし力強い言葉が異常に響いてしまった。
状況が混乱に満ちていようが、周りがどんなに死に足を捕られていようが、私たち自身も最後に死に捕まれることが確定していようが、私たちは「行けるところまで行く」しかないのである。
未来を見るためには行けるところまで行ってみるしかない。それ以外に道はない。生きている人間は自動車に乗って前に進むしかない。
秀逸なホラー描写や世界が崩壊していくストーリーよりも、川島の善性が強く刺さったことに何よりも驚いた。
だからこそ川島が「開かずの間」に引き込まれてしまう展開が本当にショックだったし、そこで幽霊の形をとった死の影に直面してもなお「大丈夫だから」とミチに対して気丈に振舞い、弱りながらも「行けるところまで行く」と言い切った川島がとても眩しく見えた。
そしてエンディングテーマがCoccoの「羽根 ~lay down my arms~」であることも重要だ。Coccoの音楽は子供の頃から大好きで、この曲も当然何回も聴いてきたのだけれども。
この何度も聴いてきた「どこへ行こう?」に答えがあったことに、私は二十年ぐらい気付いていなかったのだ。
答えは勿論、「行けるところまで」である。
混沌の中でも、我々は行けるところまで行くしかない。
その先に何があるかはわからない。でも行ってみなきゃわからないよね。
…と、このまま終わると気障な感じになりそうなので余談。
インターネット回線が死後の世界と通じる媒介となってしまう、という設定にはニューエイジの人々がコンピューターというツールを重要視していたこととの共通項が感じられてとても興味深かった。
この映画の着想の大元は、映画配給会社の「”リング”はビデオだったので、こっちはインターネットで何かをやってみませんか?」という提案が基になっているらしいが、一方で初めてインターネットというものを認識した人々が(モデム接続のあのノイジーなSEに導かれて)想起したであろう「知らない世界と初めて繋がった実感」がなければ成立し得ないもので、つくづくこの時代でなければ結実しなかった作品だよなあと思う。
黎明期のインターネットという題材、やっぱり魅力的ですよね。