Pizzicato Fiveについて考えたこと
ここ数日、twitterにPizzicato Fiveについて書くことが何回かあって、これらを浮遊させたままにしておくのではなく、ちゃんとした文章としてまとめておきたいな、と思ったので、そのことを軸にしつつもうちょっと足したり考えたりして、長い文章の形に整えたのがこの記事です。全くまとまりがないですが、そういうものとして楽しんでいただければ幸いです。
Pizzicato Fiveというユニットについて
私がはじめてPizzicato Fiveを聴きはじめたとき、家族からは「すごい明るい、アッパーな音楽」みたいなことを言われた記憶がある(※「すごい明るいアッパーな音楽」という表現は、本当にこういう風に言われたわけではなく、発言の意図をかなり要約した表現だ。当たり前だけど…)。
実際のところ、Pizzicato Fiveの、とりわけ一般的にヒットした曲群のトラックは享楽的だし、ポップで”キャッチー”なアレンジに仕上がっている。それに歌詞だって「私のすべて」「エアプレイン」「不景気」のような、無責任さすら漂わせる明るいものも、もちろんたくさんある。
なので一般的なイメージがそうなるのは致し方ないとも言えるし、私もそうした面を含めてPizzicato Fiveの音楽を好きになったのはたぶん事実なんだろうと思う。
ただ、実際にPizzicato Fiveを聴いて思うのは、これはなんて陰鬱でシリアスな表現なんだろう、ということだ。こんなに暗い音楽は他にないんじゃないかとすら思うときがある。
それは例えば鬱っぽさやダークさといった、そうした分かりやすい暗さではない。Pizzicato Fiveの音楽には、もっと根源的な陰鬱さが立ち込めている。
そもそもPizzicato Fiveの音楽には、基本的にヒップホップなどが取り上げているような”分かりやすく不幸な人”が出てこない。このユニットの音楽が取り上げるのは、おそらく一般的には恵まれた地位にいる、ある程度奔放に生きることが出来るような人々だ。
しかしだからこそ、その生活の中にある愛する人との別離、突然襲い来る虚無感、そのような憂鬱と悲しみが、まるで真っ白なシャツに滲む一滴の血痕のように目を惹き付ける。
つまりは、明るく能天気に見える人や恵まれた人々にも根源的に憂鬱のゾーンが存在し、つまりこの世に生きる人間は全員「憂鬱」から本質的には逃れられない、という向き合いたくない事実を伝え続けるのがPizzicato Fiveの音楽だ。
それにしても、こんなシリアスで陰鬱な言葉を、ポップでキュートで”キャッチー”なトラックに乗せ続けて、この人たちは何がやりたかったんだろう、ということを考える。残念ながら、私は未だに回答を出せていない。でも、その回答が出ないからこのユニットの音楽がずっと好きなんだろうな、とも思う。
「悲しい歌」
そんなPizzicato Fiveには、そのものずばり「悲しい歌」という曲がある。
これは私がこの曲のあらましと一般的には言い伝えられている経緯をくどくど解説したり、個人的な所感を色々言うよりも、youtubeの公式PV動画(上に埋め込んだもの)のコメント欄で2020年11月現在トップコメントになっている、「小学六年生の頃にこの曲を初めて聴いた」という方のコメントを見るのがいちばん良いだろう。このコメントはこの曲の全てを完璧に表現している。
…と、それだけでは記事にはならないので。
この曲で私が最も強い感銘を受けるのは、とても強い悲しみが一旦落ち着いた瞬間、唐突に訪れるあの巨大な虚無感を、「La la la」のコーラスのリフレインで生々しく再現しているアウトロだ。「悲しみ」そのものではなく、強い感情の後に訪れるあの果てない空虚の部分をここまでリアルに表現している音楽はなかなかない。フェイドアウトせずに完奏し、そのまま「コーダ」に雪崩れ込むアルバム版だと、更にその生々しさが強調される。
シングル「ベイビィ・ポータブル・ロック」のカップリングに収録されている、弦楽四重奏アレンジバージョン「悲しい歌 featuring readymade string quartet」はもはやウェットにも程があるのだけれど、一方でここまでウェットにしても曲そのものの持つ悲しみがそのウェットさを超えてしまう、という。こちらも大好きだ。
「神の御業」
名盤と名高い2ndアルバム、『ベリッシマ』のラストを飾る曲。
このユニットの歌詞には失恋というテーマが繰り返し登場するが、恐らくその中で最も”醒めた”曲だろう。愛し合う恋人たちが迎える破局について、この曲はたったこれだけの説明しか与えていないのだ。
それは神の御業
どうにもならないこと
(Pizzicato Five「神の御業」 作詞:小西康陽)
つまりはそこに至る理由がどうであれ、その終わりは「神の御業」、つまり避けられぬ偶然であり必然なのだ、と語るだけの曲だ。例えばこれがもっと説明的であれば、自分に理由があるのに神とやらに責任転嫁を試みるクズな男のコミカルな曲にもなり得る表現だが、ここにはそうした説明すらない。
ただひたすらに諦めていて、余地も余白もない。シンプルで言葉少なな歌詞なのに、とんでもない圧迫感がある。
…そしてこの曲の歌い出しは「いつかふたりが」である。つまりまだ迎えていない破局について、既に諦めている歌なのかもしれない。
だとしたらあまりにも救いがない。「何事にも終わりがある」のは確かに事実かもしれないが、この曲の主人公の眼前にはその事実が常に見えているということになる。
曲中通して「悲しいことだけど」というフレーズでしか感情を表出しない主体のなさも相まって、悲しみや暗さを通り越し一種の残酷さすら感じる風景が広がっている。
特筆すべきは、Pizzicato Fiveは、というより小西氏は、2ndアルバムの時点でこの境地に辿り着いていたということだろう。
何より、『ベリッシマ』は暗すぎて失敗作だと思った、と小西氏本人が語ったこともあるほどにシリアスな曲が並んでいる。Pizzicato Fiveの音楽の持つ「悲しみ」がいかに本質的なものか、という事実を改めて確認させられ、愕然とする。
田島氏の叫ぶような「神の御業」のリフレインが音の波の中に埋もれながらフェイドアウトするアウトロ、そしてそのアウトロでアルバムそのものが幕となるという事実も含め、壮絶。私は『ベリッシマ』でこの曲が一番好きだ。
「華麗なる招待」
そして「何事にも終わりがある」という事をテーマにしている曲と言えばこれを取り上げざるを得ないだろう。小西氏のソロプロジェクトでも「ゴンドラの歌」と改題され歌い継がれている曲だ。
ネット上には公式にこの曲を聴けるメディアがない(小西氏のセルフカバーならあるけど、あくまで「Pizzicato Five」に着目した記事にしたいので…)。なので歌詞サイトにあった歌詞にだけリンクを張る。
この曲について、多くを書くことはしない。そうしたことが出来ない、というかする余地がない歌だと思う。ただ、この曲の歌詞についてツイートした時に不意に思ったことがあって。
この曲に登場する「きみ」ということは誰なのだろう、ということを考えたのだ。
通い詰めていた地元の中古レコード店で『プレイボーイ・プレイガール』の初回仕様のCDを購入して初めてこの曲を聴いた時には、私はまだ考えの浅い学生だったし、故にこの曲の真意も読み取れていなかったので、単に別離した恋人か何かなんだろうと思っていた。
実際これも、今回取り上げた「悲しい歌」や「メッセージ・ソング」と同じようにとてもパーソナルな曲なんだろうし、特定の人物を指しているのかもしれない。
ただ、いま改めてこの歌詞を読んだ私は、この「きみ」は、人生で出会った中で少しでもポジティブな関わりを持った人なら誰でも「きみ」になり得るのではないかと、そう考えている。
家族でも、友達でも、恋人でも、知り合いでも、手元に写真を残しておく程に、親密で想い出を共有した人々であるのならば、誰でも。
「万事快調」
私みたいなタイプにだって
悩みはあるのよ
万事快調って訳には
行かないみたいね
タクシーを拾ってどこかに行こうよ
皆を誘って踊りに行こうよ
(Pizzicato Five「万事快調」 作詞:小西 康陽)
正直「万事快調」は本来この記事で取り上げるようなタイプの曲ではないと思うが、だけど同時にこのフレーズが気になってしまい、どうしても取り上げたくなってしまった。
どんなに能天気に見える人にも悩みがあるという事実、そしてそのもの悩みから逃避する手段が「皆を誘って踊りに行」く行為であるというコントラスト、ここにはこのユニットの音楽の持つ本質的な影が滲んでいるように見える。
個人的な感想になるが、「彼」からのデートの約束をソワソワしながら待っているはずなのに「皆」と踊りに行こうとしている辺りに見える強い逃避性は、なんだか私にも身に覚えがある。どんなにポジティブで楽しみにしていた予定でも、緊張と共に全部投げ出して逃げたくなることがあるので。
…しかしこれは意図的に描いているのか、それとも無意識で書いているのか、それとも私が考えすぎなのか…そこら辺が分からなかったので、実はこの項は完成した文章からは削除しようと思っていたのだけれど、最終的には取り上げることにした。
だって「万事快調」というタイトルの曲で「万事快調って訳には行かないみたいね」って言い切るのだから。
「ドミノ」
リミックスアルバム『宇宙組曲』と同発だった企画盤的ミニアルバム『フリーダムのピチカート・ファイヴ』より。何かと埋もれがちな存在だけど、この作品大好きなんですよ。
このアルバムは歌詞カードがないため、歌詞サイトに歌詞がない。またネット上で公式で聴ける手段もないため、実際にCDを購入して欲しい。残念ながら再発されていないのだけれど、中古で安く買えるはず。
この曲は普段は楽しく遊んで過ごしているであろう一人の女性の週末の様子を描いているのだが、「仕事も宿題もなにもない」、「今すぐしなきゃいけない大事な事 なにもない」と、とにかく何もやること/やりたいことが存在しないとぼやき続ける。
テレビを点けても、興味がないのか一通りの番組を確認するとすぐ消してしまう。やがてなんとかひねり出した願望は、「ピザが食べたい」。
やがて夜を迎えても、いつものように彼女が街に出かけることはない。会いたい人も行きたいところも着たい服もないらしい。その理由は簡潔に一言で説明される。
「もう飽きた」
結局彼女は「気の合う馬鹿なお友達」と長電話をする。しかしその途中で、彼女は昼間頼んだピザを残していることに思い至る。そして日曜日の朝を迎える…。
ここにはなにひとつ起伏がない。最初から最後まで何も起こらない。恐らく悲しいことも起こっていないし、一方で幸せなことも起こっていない。それは何度も何度も「やることややりたいことがない」と訴えているし、そのままで一日を過ごしているので当然なのだけれど…
ただ、音楽やファッションに明け暮れる人々を描いているPizzicato Fiveの曲の中で、普段はパーティーを楽しんでいる事が伺える女性が、いきなりパーティーやファッションに対して「もう飽きた」と言い放っているのはかなりインパクトがある。
そして「なにもない」ところからやっとひねり出した欲望を叶えるために頼んだピザが、結局完食されずに残っている(そしてその事実すら忘れていた)辺りに、主人公が囚われている無気力の強さがさりげなく表現されていて、妙に辛い気分にさせられる。冒頭(土曜日)では「いつもの午後のショッピング」と表現されていた通販番組が、最後のパート(日曜日)では「いつもの馬鹿なショッピング」という軽い軽蔑を表現する言葉に置き換えられているのも…何とも言えない。
この文章の冒頭で書いた、「楽しそうな人にも陰鬱のゾーンが存在するということを伝え続ける音楽」という私のPizzicato Fiveに対する印象は、実はこの曲の存在の影響が大きいかもしれない。
曲としても特にサビも盛り上がりどころも無く淡々と進み、そのまま途切れるように唐突に終わるのでかなりインパクトがある。
「CDJ」
最後の曲の前にちょっと閑話休題。このユニットの持つ「暗さ」が、めちゃくちゃ自虐的かつコミカルな方向に向いている曲で大好きなので取り上げる。例によってネット上では公式に聴ける手段がないので、歌詞をどうぞ。
元は小泉今日子さんへの提供曲だったらしい(今初めて知った)。いつもとちょっと違う風合いがあるのは提供曲だからだろうか。だとしてもなんでこんなぶっ飛んだ歌詞になったのか。
あなたにはお気の毒だけど
あなたの大切なレコードを
割っちゃった
あなたには「お気に入り」かもね
私にはうるさいだけのゴミ
もう我慢できない!
(Pizzicato Five 「CDJ」 作詞:小西 康陽)
レコードジャンキーとして知られる小西氏がこのフレーズを書いているというだけでもう笑いが止まらない。自虐が過ぎるだろ。
そして二番で「私」は「あなた」の「お気に入り」でいることは退屈なだけなのだ、と辛辣に言い放ち「あなた」の元から去っていく。そしてサビではやけくそ気味にこう歌う。
いますぐDJ
あの曲DJ
かけておくれよCDJ
とりあえずDJ
この場をDJ
繋いでおくれよCDJ
(Pizzicato Five 「CDJ」 作詞:小西 康陽)
このフレーズが「あなた」側の視点なのか「私」側の視点なのか分からないのも面白い。「私」だったら身勝手にも程があるし、「あなた」だったらやけくそにも程があるし、どっちにしろめっちゃ笑える。
よく考えると男女関係が相当冷え切った状態で破綻する様子を描いているかなりシリアスな曲なのだけれど、何せこの内容で「作詞:小西康陽」という事実が面白すぎる。最初の「早く音楽をかけてちょうだい!」とせがむアニメか何かのキャラの音声のサンプリングもなんか微妙に曲の内容と噛み合って無くて面白い。
曲としてもかなり好き。あまり顧みられることがない印象があるけど、色んな意味で傑作だと思う。
「メッセージ・ソング」
Pizzicato Fiveで一番好きな曲だ。
初めて聴いたのは子供の頃、「みんなのうた」の再放送。サビの部分のメロディの並びだけを長い間ずっと覚えていて、画面の隅っこに出てきた「ピチカート・ファイヴ」というユニット名もちゃんと覚えていた。年齢を重ねたときに、「Pizzicato Five」を聴いてみようかな、と思ったのは、間違いなくこの曲の存在を覚えていたからだ。
最近、近所のスーパーに買い物に行ったら店内BGMとしてかかっている有線でちょうどこの曲が流れていて、運命をめったに信じない私だけど、ちょっとした運命を感じた。そんなこともあった。
この曲は「悲しい歌」に付随するような、あるいは対になるような内容で、故に小西氏のパーソナルな事情が託された曲だと言われている。少なくともそれなりの数のリスナーがそうした解釈を持ってこの曲を聴いている。
しかしそれが事実だとして、そのパーソナルな想いを強く、とても強く込めたこの曲が、一種普遍的な、誰にも寄り添い得る普遍的な内容になり、「みんなのうた」で何回も放映されるまでに至ったという事実には、なかなか考えさせられるものがある。
私がこの曲が一番好きになったのも、多分この曲に寄り添ってもらったことが過去にあったんだろうな、と思う。それがいつのことかは覚えていない。
もしかしたら子供の頃、「みんなのうた」で初めてこの曲を聴いた瞬間かもしれないし、学生の頃に冬の真っ暗な夕空の下で、この曲のアウトロのギターと鍵盤の熱いプレイを聴きながら長い坂道を思いっ切り駆け下りたときかもしれない。
子供の頃に「みんなのうた」で聴いた時からずっと思っていたけれども、「メッセージ」という言葉がサビに出てくるとはいえ、このパーソナル極まりない内容の歌詞に「メッセージ・ソング」というタイトルを付けるセンスには震える。
忘れないで
ぼくはきみを
ほんとうに愛している
(Pizzicato Five 「メッセージ・ソング」 作詞:小西 康陽)
私は冬になると必ずこの曲の存在を思い出す。今年ももうすぐこの曲の季節だ。