HASAMI group 『パルコの消滅』
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シティポップというジャンルがブームになって久しい。
昭和のアニメに出てくるような夜の都会の風景が事後的にアイコンになり、昨今のリバイバル以降に「シティポップ」的なるものを志向する音楽はそのアイコンを目指して音楽を作っているような印象がある。
しかし、リアルタイムのシティポップは「街とそこで営まれている生活のための音楽」だったのではないか。
それが今の世から見るとバブル経済の中で浮ついた幻影に見えたとしても、その当時では理想像であると同時に至って切実でリアルな表現として受容されていたのではないか。
恋人とのデートを楽しみ、友達との夜遊びにはしゃぎ、最新のトレンドに魅了され、しかし一方で今の生活の中に「何かに手が届かない」感覚がある、そんな人々の理想を満たすための音楽だったのではないか。
…聊か行き過ぎた妄想だろうか。しかし、シティポップが文字通り「街の音楽」であったのは事実なはず。昨今ではその観点が剥ぎ取られがちなのではないだろうか、ということをこの数日のあいだ考えていた。
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HASAMI groupというバンドがいる。
青木龍一郎という男性を中心に何人かのメンバーが参加しているようだが、音源として聴ける作品の殆どは青木が一人でDTMで制作したもののようだ。
2023年6月追記:現在のメンバーは三人+サブメンバー一人。詳しいことは青木による解説動画「HASAMI groupの歴史」を参照。
もちろん青木以外のメンバーが作詞・作曲を手掛けた楽曲も存在する。例えば『部屋と空』収録の「僕ら本当に何もなかった」は元メンバーの野宮が作詞作曲を手掛けた楽曲であり、また『MOOD』収録の「立ちすくむ国家」では大森が作詞を担当している。
HASAMI groupの音楽性を一言で説明するのは難しい。
というのも、ギザギザに歪んだギター系の音色によって奏でられる不協和音が山盛りのリフを中心に組み立てたアバンギャルドなロック風の曲と、90年代J-POPの晴れやかさ・爽やかさを手中に収め自在に手繰るポップチューン、というあまりにも相反する作風の曲が混在しているのだ。いや、混在しているどころではない。HASAMI groupはその相反する二つの作風を、一つの曲の中に同居させて見せることすらある。それに加えて独特のフロウを繰り出すヒップホップも積極的に作っているし、このユニットの音楽性の「かんたんな説明」は困難を極める。
そこにお笑いやインターネットを揺籠として育まれた独自のユーモアセンス、「日本でリリースされた音楽を全部聴く」という無茶な活動で得た多彩な知識、そして何よりも「アマチュア」の表現に対する真剣で過大なリスペクトが大量に含有されており、全ての楽曲にとても濃い色で印字された「HASAMI group」の刻印がはっきりと見て取れる。
youtubeにアップロードされているHASAMI groupのMV(このMVがインターネット上にアップロードされた映像や映画のサンプリングのみで構成された、独自のセンスによって組み立てられた映像であることも付記しておきたい)(2023年6月追記:HASAMI groupの映像は基本的にMVではないとのことです)のコメント欄は曲によって極めて気まぐれに解放されているが、そこには必ずと言っていいほど「この曲を聴くことでしかこの感情になれない」という旨の言葉が書き込まれている。HASAMI groupの音楽の独自さを端的に示す現象であるように思う。
…って偉そうに書いたはいいけど、私はまだ全然その全貌の一部しか聴けてないんですけど。
何せ青木が中学生だった2006年に結成、2008年に本格的に活動を開始、そこから年一~年二ペースでアルバムを出し、それ以外にもいろいろ作品を出した結果、アルバム20枚超(※現在聴けるのは5thアルバム『鉄街ろまん』以降のアルバムでそれ以前の作品は未公開、また12th『学生時代』はCDのみでネット未配信)、更にそこにEP6枚、シングル3枚、リアレンジアルバム3枚、そしてその他諸々…と異常な作品量。
bandcampにあるオリジナルアルバム(含11.5th)だけでも230曲11時間24分。これを思えば、私はまだまだ氷山の一角しか聴けていない。
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この『パルコの消滅』は2022年に発表された21枚目のアルバムである。
ここ数日のあいだ私はこのアルバムを聴き狂っていて、このアルバムのことしか考えられなくなった時間も発生した。あとこの名盤がリリースされたというのに全く聴かずに過ごしてきた約6か月間の人生について考えることもあった。
今作、先述のHASAMI groupの作風の一つである「カオティックかつノイジーなリフで引っ張っていくアバンギャルドなロックチューン」がほぼ無く、「田舎の学校」のような混沌とした雰囲気の楽曲や「卒園式」のようなカオティックなベースラインが先導する楽曲も整理されたアレンジになっていて、全体的にかなりポップな仕上がりになっている。
青木はブログで今作の全曲解説セルフライナーノーツを公開しており、このアルバムを楽しめた人にとっては必読のテキストとなっているのだが、その中で青木は今作の制作について、「ノイジーな音作り」を意図的に封印したと述べている。
また、今作の楽曲について、昨今の音楽シーンで繰り広げられる「カッコいい過去の音楽の引用・咀嚼アピール合戦」への反発として、そうしたアピール合戦で切り捨てられがちな音楽やその要素を咀嚼する形で製作していった、とも述べている。「かっこいい引用アピール合戦で切り捨てられがちな音楽」として青木が例に挙げているのは以下のようなものだ。
個人的にこの感覚に強く共振した曲がある。それが「FIRE」だ。
青木が小学生時代に愛聴していた『Dancemania SPEED』シリーズに見出した「ハイテンポの四つ打ち+哀愁のあるメロディ」という組み合わせの妙をリファレンスとして組み立てられた曲だ。
私はこの曲を聴いて一発で気に入って、サビメロなんて何回聴いても感情が大きく動くのだけれど、それは何故かをぼんやりと考えていた。
そしたらつい先日、突然分かってしまったのだ。この曲は「私が子供の頃に聴いていたアニソン」だ。
直接的に似た曲があったとか、そういうことではない。なんだったら具体的な曲名も思い浮かんだわけではないし、そもそもそんな曲があったかどうかも定かではない。
…いや、…あったんだと思う。アニメの雰囲気に引っ張られて聴いていた、子供心に「でもこのジャンルの音楽を別に好きになっているわけでもないから、多分これっきりの関係になるだろうな」ということを予感していた、でも一方で確かにはっきりとその曲を「良い曲」だと思っていた、そんなアニソンが。
その感覚にこの歳になって唐突に、こうもはっきりと出会ったから、私はこんなに心が震えているのだ。
この作品の底にあるのは他の音楽が忘れていたり無視したりしているものなのだということを、その時はっきり実感した。
駅の発着メロディ、スマートフォン、突然ロマンチックな気持ちになった瞬間、出前館、回文、Eテレ的押韻、寝覚めの悪い朝、知能指数、嫌いだった先生、はいこちらポンポコ商事です、博物館で流れる映像のBGMに使われるニューエイジ。
それらを「俺がばっちり全部回収する」ためのアルバムだったのだと。
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このアルバムはそこに(HASAMI groupのアルバムである以上当然なのだけれど)「HASAMI groupの高い音楽性」もガッツリ添えてくる。
特に3曲目から4曲目の流れは本当に容赦ない。HASAMI groupだ!と一聴してわかるコード進行が四つ打ちのハウスに乗せられてバンド史ハイライト入りの輝きを放つ「詩とスマートフォン」、そしてポップミュージックの成し得る最大の魔法が僅か4分半の間にたぶん20回ぐらい起きている大傑作「けがれる輝石」。
こんな凄まじい曲たちが隣り合って並んでいるのは一体どういうことなのか。
もっと感覚の話をしろと他のアルバムの曲(「Recapture」)で言っていたので、バンドへのリスペクトの姿勢を示すためにこの段落は冷静さを欠いたままで書かせてもらうけど、マジでわからない。
この2曲は何回聴いても動揺するし、数回に1回はマジで泣きそうになる。わからない。
何故「詩とスマートフォン」の「ドゥイドゥイドゥイドゥイ」というお洒落な雰囲気のコーラスにこんな動揺してしまうのか、本当に分からない。
何故「けがれる輝石」のサビメロに情動を突き動かされ、聴きながら買い物をしていたドラッグストアの中で泣きそうになったのか。分からない。
でも、『自己を 深く 深く 染めろ』というフレーズはあまりにも眩しく強い肯定に聴こえるし、『この世に争いが絶えないのは誰もが今日を信じてないから』というフレーズは全くその通りのようにも思う。実際のところどうかは知らない、けれども私はこの2曲を聴いている間、確かにそう感じるのだ。
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ここまでで結構な文字数になってきたので、そんな名曲がたくさん入っているのでこのアルバムは傑作です、で終わらせたい気持ちはやまやまなのだけれど、でもまだ書きたいことがある。
そもそも今作のコンセプトとして置かれた表題、”パルコの消滅”とはなんなのか、ということだ。
これは青木が少年時代に足繁く通った宇都宮パルコが2019年に閉店したこと、そしてそのテナントビルが空っぽの廃墟と化して宇都宮の街に未だに鎮座している現状を表したフレーズだ。
アルバムの最後に置かれた表題曲「パルコの消滅」でそのことが、そして青木が宇都宮パルコで過ごした青春時代が、非常に直接的に言及される。
実は青木とは全く別の土地に住んでいた人間である私も、青少年時代にサブカルチャーの少なくない部分を学んだのは地元の繁華街にあったパルコ、その中にあったCDショップと書店だった。
特に高校時代は電車からバスの乗り継ぎの際に繁華街を利用するルートで通学していたので、平日の夕方は毎日のように足を運んでいた。
でもそのCDショップも書店も、私が地元を離れた直後に閉店してしまった。そしてパルコ自体も営業終了を決定したらしい、と風の噂で聞くこととなる。
ただ、この「パルコの消滅」は青木の非常にパーソナルな部分を描いた曲で、第三者としてのノスタルジーや情動は確かに抱くし、ムチャクチャ良い曲だな!!!と思うものの、一方で素直なことを書けば、「似たような経験をした」だけの私はこの曲に書き添える言葉を持たないと感じている。
私は島村楽器でシンセを延々と触っていたことはあるが残念ながら大爆笑してくれる友達はいなかったし。
でも、今作にはこの曲と全く同じ”今はもうないもの”を取り上げた曲があって、私はそこにあまりにも生々しい自分の感覚を見つけてしまった。
それが「MUSIC」。
この曲は「音楽」というカルチャーが世の中のひとかどを掌握していた時代の輝きとその中でときめいていた青少年の走馬灯を、90年代的なR&Bに乗せて歌い上げる曲だ。
子供の頃、家族のドライブに着いていくと、たまに地元のレンタルショップに連れて行ってもらえた。
私たちが使っていたレンタルショップは地元の企業が運営していたローカル・チェーンで、県内にはそこそこの店舗数があったようだ。私たち一家が愛用していたのは、車を10分ほど走らせると辿り着けるふたつの店舗。
そこでCDTVやドラマで聴いて興味を持ったヒットソングや、CMで流れていたのを耳にして気になっていたタイアップ・ソングなどのCDを借りて、家に帰ってカセットテープに録音する、ということをよくやっていた。
この曲の歌詞のまんまのことを私はやっていたのだ。
というより、私(と青木)と同世代の少なくない人たちが、こうしたことをやっていたんじゃないかと思う。
この曲を聴いているうちに、「記憶」としては残っていたその経験の、一番大事な部分を思い出した。
それはこの「レンタルショップでCDを借りる」という経験でしか得られなかったタイプのときめきだ。
まだ聴いた事のない音楽への期待。ヒット曲をカセットテープへの録音というかたちで手中に収める嬉しさ。返却日という期限付きであることの若干の緊張感。そうした状況が生むときめき。「CDを買う」という行為にはない、きっともう二度と戻らないときめき。
この曲を聴いていると、フロントガラス越しに見える店舗から借りたばかりのCDを抱えているときの、車内の暗ささえ思い出せそうな気がする。
そういえばあのレンタルショップは貸し出したものをTSUTAYAみたいな布製のバッグではなく、ざらざらした黒いビニール製のバッグに入れていた。
レンタルショップのロゴが控えめな金色で印刷されたそのバッグには透明の素材で作られたポケットが付いていて、そこには返却期限が書かれたレシートが入れられていたっけ。
そのローカル・チェーンはやがて運営元の企業が大手企業にレンタル業を売却し屋号が消滅、私たちが行っていた2店舗はTSUTAYAになった。
TSUTAYAに屋号が変わってからもその2店舗は結構使っていて、特に中学生ぐらいからお笑いが好きになったのでよくDVDを借りていた記憶があるのだけれど、しばらくして2店舗とも閉店してしまった。
いま調べてみたら、運営会社自体も後になって倒産したらしい。
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シティポップとはかつて、確かに「街を生きる人のための音楽」だったはずだ。
このアルバムの冒頭の「田舎の学校」で、HASAMI groupはユーモアを交えつつさりげなくこう宣言している。
この『パルコの消滅』は、「地域」で暮らす/暮らしていた私、そしてあなたのための音楽として響く可能性を持っているアルバムだと、私はいちリスナーの身でありながら、本気で考えている。
あのレンタルショップで借りそびれたいくつものCDやお笑いのDVD。
パルコのCDショップで買いそびれたいくつものCD。
パルコの書店で立ち読みだけで済ませてしまった何冊もの本。
果たして今の私はそのうちのどれぐらいを取り戻せただろうか。
そもそも、それらのモノのいくつかは確かに現物を手に入れることが出来たけど、あの場に置いてきた気持ちまで取り戻すことを、果たして一回でもできただろうか。
(文中敬称略)