「アンクルサムへの手紙」から見る『cult grass stars』、そして旅行から帰ることについて

 人生の中にミッシェル・ガン・エレファントを集中的に聴いていた時期があった。あまり顧みることも無いが、確かにあった。かなり昔の話だけど。

 私はミッシェルのアルバムの中で『cult grass stars』が一番好きだ。

 家族の影響で好きになった、というよりは家族ぐるみで好きなバンドだったのでCDの所有権は割と散逸している。そのため、いま手元にCDを保持していないアルバムなども結構ある。
 しかし今作は私の所有する盤として確かに手元にある。頻繁に聴く盤ではないため仕舞い込んでしまってはいるが、しかし音楽再生によく使う2台目ノートPCのiTunesには取り込んであった。恐らく「一番好きなアルバムだからこれは取り込んでおこう」と思ったのだろう(ちなみにiTunesにはミッシェルのアルバムがもう一枚取り込んであり、それは『RUMBLE』だったりする。「カーテン」が大好きなので)。

 このアルバムを入手した時のことはよく覚えている。

 関東地方在住の親族がいることもあり、家族旅行として定期的に(年に2~3回ぐらい)東京に旅行に出かけていて、そのついでに横浜に寄ったり寄らなかったりするのが通例だった。
 それがいつのことなのか、何歳ぐらいのことなのか、そうした詳細についてはもう全く覚えていないが…このアルバムはある年の旅行の帰りに横浜に立ち寄った際、現地のCDショップで買って貰った。今作は家にあった幾つかのベスト盤には収録されていない曲が多く収録されており、前からとても聴きたいアルバムだったので嬉しかったのを覚えている。このCDショップは今はもうなくなっていると思う。
 帰りの車中で、買ったばかりのこのアルバムをかけながら帰ることになった。

 個人的にミッシェルの作風は『GEAR BLUES』を境に大きく変わっていったと考えている(そしてその点に異論のある人はあまりいないのではないか、という直感もある)。大きく分ければ、『Chicken Zombies』までの3作、ライブ盤とミニ『wonder style』を含めれば5作を「初期作品」として分けることが出来るだろう。その中でもこの『clut grass stars』には今作でしか聴けない=今作でしか体験できない異様な空気が漂っている。
 ひとことで言えば、このアルバムは全体的に物悲しい。何故かは分からない。勿論「I was walkin' & sleepin'」のような明るい曲や「トカゲ」「キング」「いじけるなベイベー」のような(アレンジ上は)ハジけた曲も入っている。なのに、常に悲しい。これが1stアルバムとは思えない、という点ではスピッツの『スピッツ』にも似ているかもしれない。

 このアルバムの特異性を端的に伝えるのが、中盤のハイライト「アンクルサムへの手紙」。8分という長尺の曲なのだが、同じ長尺曲でも例えば『Chicken Zombies』の「ブギー」や『SABRINA HEAVEN』の「サンダーバードヒルズ」等とは一線を架した光景が繰り広げられている。
 あまりにも遅いテンポの中で、感傷的なメロディがどこまでも続くトラックじたいも他とは違う。例えば「ブギー」で繰り広げられる単調な反復を繰り返す構成や「サンダーバードヒルズ」の冒頭の長いジャズ調のセッションのような、「長尺ならでは」の要素が一切ない。本来4分の尺の曲のテンポを極限に落として8分に引き伸ばしたようなシンプルな構成が、どうしようもない行き場の無さや圧迫感を醸し出す。
 トラックの構成だけで言えば、他の長尺曲でいうと「太陽をつかんでしまった」が一番近いと言えるかもしれない。しかし歌詞も含めると、「太陽をつかんでしまった男」の悲劇についてのストーリーテーリングのために8分の尺が必要だった、ということが歌詞を読んですぐ理解できる同曲とは全く違うものが見えてくる。

 「アンクルサムへの手紙」の中では、ひとりの人間が狭い部屋で繰り広げる放浪が描かれている。表現も抽象的で、ストーリーテーリングも何もあったものではない。なのに行き詰った状態だけは妙に生々しく表現されている。「パノラマはこれからも広がる」し、「ロンドンもパリも一度に見える」(「ロンパリ」という斜視を示す言葉があるが…)という。
 しかし「全ては見えている」と断言する割には、結局のところ何を見ているのかもよく分からない。しかも見ているのは「ガラスの向こう側」―つまり、曲が終わるまで主人公は「風のない部屋」や「真水」の中から終ぞ出ることはない。
 そもそもタイトルからして「アンクルサムへの”手紙”」であることに今更気付く。手紙とはなかなか会えない遠地の人に出すものである。この時点で主人公が「タイルの床」の上からそもそも動くことがない事は既に暗喩されていたのだ。しかしその状態でありながら、切実にリアリティを欲している。この生々しい矛盾は一体何なのだろう。
 ちなみにタイトルになっている「サム」はCメロなのかなんなのかよくわからないパート(というよりこの曲は元々どこがサビかも判別できないような曲だ)で唐突に登場する。「頭の中でサカナが盛り上がる」とは一体どういうことなのか…?これだけは本当にわからない…。

 その他の曲も―「くさってる」人間について歌った曲に「キング」と名付けるセンス、幻想的な風景を描く「strawberry garden」の詩情、売れないバンドマンの心情を書いたような「ブラック・タンバリン」のリアリティ、やたらポップな曲調で心中を匂わせる歌詞が散々繰り返される「スーサイド・モーニング」の後ろ暗さ、不眠にのたうつ人間の恐怖が描かれる「眠らなきゃ」の混沌、どれを取っても何やら遣る瀬無い空気が漂う(故に「I was walkin' & sleepin'」の自らを延々と説明する照れをそのまま描く照れの無さや「トカゲ」で一瞬表出する肝が据わった意志表明が貴重だ)。この物悲しさは何なのだろう。
 曲に関しては中期や後期の曲と比べると圧倒的にポップで、このバンドが持つメロディの良さやキャッチーさがそのまま伝わるような曲が多い。アレンジを変えれば渋谷系のミュージシャンが歌っていそうな曲も散見される。しかしそれが却ってアルバム全体に漂う遣る瀬無さ、物悲しさをより増幅・強調させている。

 そして私の場合、この遣る瀬無さ、物悲しさが「旅行の帰り」というシチュエーションにバッチリと嵌ってしまった。
 旅行の帰路で覚える感覚は奇妙だ。車窓の向こうには見たこともない景色がただただ流れている。しかしその風景は確実にいつも暮らしている町へと続いている。楽しかった場所から少しずつ離れていく、楽しかったことが終わって日常に戻っていくという悲しさ。イベントを一つ終え、日常を過ごす家へ帰っていくことへの安堵感。それらが綯交ぜになった、あの瞬間でしか味わえない気持ちになる。
 その帰路に流れるBGMとしてこのアルバムはあまりにも出来過ぎていた。「アンクルサムへの手紙」の行き場の無さや「眠らなきゃ」の終盤の混沌が、知らない土地を走る車中、カーステレオから流れ出すことによって本来よりも生々しく響いた。何歳ごろのことかすら思い出せないのに、その感覚だけは今でもはっきりと思い出せる。

 大人になり、私は旅行で出かけていたような土地に住むことになり、さらに遠出が嫌いになってしまった。しかしそれでもこのアルバムを聴くと、否、このアルバムの存在を思い出すだけで、旅行の帰りでしか得られないあの気持ちをはっきりと思い出せる。故に私にとってこのアルバムは特別なアルバムであり、ミッシェルで一番好きなアルバムになっているのだ。

 ところでお気付きの方もいると思うが、この文章では「世界の終わり」について一切触れなかった。この曲は持つ意味も思い入れも多すぎて、ちょっと「アルバム全体の感想」に組み込むことが難しい。名曲だよね。