アクジキ
読んだ本を思い返すときに、意外と「誰が書いたか」で思い出しているということを、他人から言われて気づくことになった。
しかし、そうなのである。読書家と称されたこともあるがそれはおこがましく、合う作家合わない作家で読み分けているなぁという自覚があった。なるべくカタヨリたくなかった、そしてそう見られたくなかったからこそ集積した私の "カオス" であったが、機械学習的には、そしてむしろ逆説的に、私の傾向を把握し表明するに充分な証拠が揃ってしまった。
読書家と呼ばれるのは照れくさく、むしろ雑食家、悪食などと呼ばれたかったけれども(こんな現状でもそう呼んでくれる人はいるだろうが)、自分のカタヨリを自分で自覚しては虚しい。まあしかし、そんなカタヨリさえも愛しく思える……と言明してもいい気がするほど、自分がいい加減に慣れてきたのは、あくまでただの老いにすぎないが。
脱線。そもそもnote慣れが足らず、前提を語らず、自分語(独自語)も文中で定義せず、どうしてもTwitterと同じノリで、140文字を意識した構成で書いてしまう。最初のツイートで主張を置いて、そこにリプライ、RT・引用RTでネットワークツリーグラフを立てて。要はあれはプロットなのだ。Twitterというプロット作成マシン。アウトプットしたものを眺めインプットすることで私の頭のなかに「ブドウ」を作るための。また独自語だがここでは補足しない。
というわけで、私というブドウのカオスをどう積み重ねるか、個人の内のミクロをいかにマクロに捉えるか、何人にも性根はその個人で一貫していると見なすことができることを合理性と呼びたいような気がして。いずれが菖蒲か杜若。