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マルタの祝日「6月7日:セッテ・ジューニョ」

 今回は6月7日についてです。マルタでは「Sette Giugno: セッテ・ジューニョ」として祝日に制定されています。

 1919年。当時、マルタはイギリスの支配下にありました。第一次世界大戦では日英同盟のもと、中央地中海の要衝でもあったこのマルタに日本は第二特務艦隊を派遣しました。それはさておき、終戦後、マルタでは、食糧の供給がままならなくなりました。小麦の価格も高騰し、農家や一部の商人にとってはよかったものの、やはりそれ以外の人々にとってはこの価格高騰は致命的なものでした。輸入商人や小麦粉生産者が不当に値段を吊り上げていると信じられ、彼らは批判の対象になりました。小麦の価格が上昇したということはもちろんパンの価格も上昇しました。またこの頃には物価も上昇しましたが、賃金は物価の上昇には追いつかず、非雇用も相まって、人々の不満も溜まっていきました。なお、批判された小麦商に、現在のファルソンズ(マルタの代表的なビールCISK(チスク)の醸造所)も含まれていました。

 こうした経済的要因のみならず、政治的背景もありました。1814年に正式にマルタはイギリスの属することになりましたが、1835年に初めて憲法が制定され、1887年にはマルタ人優位の憲法憲法改正が行われましたが、徐々にそれも有名無実になっていきました。1919年2月には、国民評議会がイギリスに対してマルタ人による自治を求めました。この時も暴動があり、ヴァレッタでこの日に開けていた店が襲われました。同年6月、植民地省がマルタの自治に関して調査をするために代表者が派遣されることを伝えるものの、イタリア派のエンリコ・ミッツィはこれを信用できないと主張しました。もうひとつの背景にはイタリア派とイギリス派の争いもありました。イタリア派は現在の国民党につながりますが、言語論争のなかイタリア語の保護を掲げていた立場です。別の機会で述べたいと思います。

 第一次世界大戦では、船舶の修復も大きな産業でしたが、終戦後はその仕事もなくなり、輸入も減少したことも相まって、ドックヤードの労働者らは結果としてイギリス帝国政府からの仕事を終了することを告げられました。彼らは当然の如く、帝国政府に怒りました。また、学生も帝国政府に不満を感じていました。数ヶ月の職業経験を積まないと、学位が与えられないということが決められたためです。

 6月7日に国民評議会が行われました。ヴァレッタに集まった群衆はおよそ2万人と言われています。ドックヤードの労働者と大学生が多数を占めていたようです。ユニオン・ジャックを掲げていたところは群衆の標的となりました。例えば、国立図書館ではユニオン・ジャックが掲げられていましたが、集まった群衆の要望により外されました。ともかくユニオン・ジャックが掲げられているとところへ民衆は次々と行進していきます。ストラーダ・テアトロ(現在のオールド・シアターストリート)にあったデイリー・マルタ・クロニクルの建物に民衆は突入し印刷機を破壊しようとしました。また、イギリス支持者の建物は次々に襲われました。ストラーダ・フォルノ(現在のオールド・ベイカリー・ストリート)にあった小麦輸入商カッサール=トレジャーニ家の建物も襲われました。警察の要請により、兵士が派遣されましたが、群衆の数に対して非常に数が少なく、結局は64人の兵士が暴動鎮圧に向かいました。カッサール=トレジャーニの建物で、兵士は民衆に向かって初めて発砲し、ここで死傷者が出ました。また、デイリー・マルタ・クロニクルではガスが漏れたため、なかにいた人々と兵士が脱出せざるをえない状況になりました。外にいる群衆に襲われるのは明らかでしたが、脱出し、発砲することで群衆を遠ざけようとしました。この結果、死者3人、傷病者50人となりました。この時の評議会に出席していたひとりが群衆に演説し、これ以上の暴力を止めるよう説得し、同時に帝国政府には兵士を除くよう要望しました。翌日も暴動は発生し、小麦工場を保有していたフランシア家の建物も襲撃されました。建物の護衛のために王立マルタ軍の兵士が派遣されましたが、彼らはマルタ人に武力を用いることは躊躇いました。夕刻になって、海軍が到着し、彼らがその周辺を鎮圧しにきました。その際に負傷したマルタ人ひとりが数日後、亡くなりました。結果として、4人の犠牲者を出すこととなりました。ただし、続きがあって、彼ら以外にも、この暴動の際の怪我が原因で亡くなったとされるのは他に3人います。そのうちの2人がマルタ人、あとのひとりは海軍兵士です。

 このセッテ・ジューニョののちに、帝国政府はマルタの領内に関する事柄につき、高度な自治を認め、1921年に新たな憲法が制定されました。また、ファシスト政権下のイタリアでは、この事件をリソルジメントでの殉教者並びにマルタにおけるイタリア民族統一主義の英雄として評価しました。

 さて、一言でこの祝日を要約すると、イギリスに立ち向かった暴動での犠牲者の追悼および記念する日というところでしょうか。ただ、そこに至るまでには複雑な背景が存在しています。この事件は究極的には現在にもつながっています。ただ、それを書き出すと長くなるので、次の機会に譲りたいと思います。

(今後、修正の可能性あり)

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