ラオス。ごめんよぉぉぉー!
わたしはラオスに謝りたい。
ラオスというのは、国名のラオス。
前回の記事で、わたしが旅行記を書いた、そのラオスです。
9月、ラオスの地に降り立ち、わたしは思いがけず、その土から強い衝撃を受けることになりました。
粘土質の赤土は、吸水性に乏しく、日本の土のように水を浄化する力も、栄養を蓄える力もほとんど持たない土のように感じられ……帰国してからも消えないその衝撃を吐露するように、わたしは記事を書きました。
そのラオスの赤土に、わたしは謝りたいのです。
悪いと思ったら謝る。それはごく自然なことですが、「謝れて嬉しい!」とまで思える機会って、きっとそう多くはないですよね。
今回は、その貴重な機会。
ラオスに謝ることができて、赤土にごめんなさいと伝えることができて……わたしは、いまとても幸せです。
冒頭の記事を投稿した少しあと、わたしはこちらの記事に出会いました。
投稿されたのは、kohji 南ラオス自然農園さん。
観光客としてラオスを訪問しただけのわたしと違い、現地に農園を持ち、ラオスの土と農業に正面から向き合われているnoterさんです。
早速記事を引用してご紹介しますね。
わたしがラオスで感じたように、赤土は、やっぱり農業には向かない土。
ところが引用部分の最後に、「(と思っていた)」と、かっこ書きがあります。
これはどういうことだろう……。
続く文章からは、kohjiさんが炭素循環農法とよばれる方法で、ラオスの土壌を改良しようとされていることが読みとれました。
肥料を使わず、微生物を大切に育てることで土地を豊かにしていく。そういう農業。
理想的だと思えました。
そうした改良で、粘土質の赤土が、微生物をたくさん含んだやさしい土になっていくなら素晴らしいと感じました。
だからこそkohjiさんが、
「土は改良したほうがいい。(と思っていた)」
……とおっしゃるのが氣になりました。
さらに読み進めていくと、現地の農業家のウォンさんが赤土にしゃがみこみ、kohjiさんに「ここにラッキョウを植えていいか?」と尋ねる場面がありました。
淡々と続くシンプルな会話ですが、わたしは、えっ?と思いました。
kohjiさんご自身が、
と書かれるほどの粘土質の土。
ところがそんな赤土でも、肥料を与えず、水やりさえしなくても、ラッキョウが育つという!
それだけでも感動してしまったのですが、さらに、記事中に紹介されているkohjiさんの別記事を開いてみて……わたしは思わず歓声をあげました。
そこには、ラオスでkohjiさんが初めて取り組まれた稲作の様子が記録されていました。青々と茂る、陸稲の写真つきで!
しかも、種まきは、
とありますし、その後は、
なのだそうです!
つまり、赤土の力だけで、稲がこんなに青々、すくすくと育っている!
赤土、すごいよ~。
このときつくられたお米は、カオニャオと呼ばれるラオスのもち米。
ところがその後、タイ産や日本産の種を育てようとされたときには、うまく育たなかったのだそうです。
以下、その記述です。
土は、その土地にふさわしいものをきちんと育てる。
土壌を改良しなくても、たとえ他のものが育たなくても、その土地に適した種なら簡単に成長する。
kohjiさんの実体験から貴重な事実がみえてきます。
それはあまりにも端的に、わたしたちに大切なことを伝えてくれる氣がしました。
わたしたち人もきっと同じ。
その人、その人のなかで、いともたやすく育つものがある。
肥料すら必要とせず、ただそこに種を蒔くだけで、立派に育つものが、きっとある──。
ああ、もう……ラオス、本当にごめんね。
赤土が、稲やラッキョウを育てることを知らなかった……そのことを謝ったわけではありません。
ラオスの地に立ったとき、わたしは、すぐにそこを「改良の必要な土」だと感じてしまいました。
もっと水を濾過する力があれば。
もっと微生物を蓄えていれば。
もっと空氣を含んでいれば。
わたしはラオスの土を、日本の土と比べたのです。
無意識に、日本のやわらかな土を脳裏に浮かべ、「いい土とはこういうもの」という思い込みで、赤土を眺めたのです。
ラオスの土が「もっとよい土」になればいいと、勝手に願ってしまったのです。
それは、普段わたしが「決してするまい」と、肝に銘じていることでした。
何かを何かと比較すること。
それを身勝手に「かえよう」とすること。
迷いも多かった子育てを経て──それはようやく身につけた、揺るぎない自分のたからものだと思っていました。
子どもたちを別の誰かと比較しないこと。
比較して、何かを望んだり、「かえよう」としたりしないこと。
ただ……ただ、ありのままに受けとめること。
もちろん子どもたちだけではなく、身近な人に対しても、自分自身に対しても、比較をしたり、「かえよう」としたりすることは、ずいぶん前にやめました。
それを手放したとき、世界がどれほど色をかえたか……決して忘れることはないのに、わたしは無意識に、ラオスの土を日本の土と比べていました。
ラオス、赤土、本当にごめんなさい。
実は、kohjiさんも、記事中でこんなことを述べられています。
先の引用にあった、「(と思っていた)」のお氣持ちは、ここにつながるのだと思いました。
そして、わたし自身、この言葉に目から鱗を何枚も落としてもらいました。
本当にその通りです。
旅行のあいだじゅう、ラオスの緑はたしかにわたしの目の前にありました。
ラッキョウやもち米が赤土で立派に育つことをきくまでもなく、わたしの目は、既にラオスの豊かな緑を映してきました。
それなのに、わたしはなぜ、ラオスの土は植物を育てる力が弱い、と思い込んでしまったのか。
何かを「比較する」ことの落とし穴が、まさにそこにあるのだとあらためて感じました。
比較をすると、どうしても「ないもの」のほうに目がいきがちです。
日本の土より保水力が弱い。
日本の土より微生物が少ない。
そんな思いにとらわれると、自分の目に映っているものすら見落としてしまいます。
もしかすると、「改良」という言葉も、少しそれに似ているかもしれません。
たとえば記事中にある、炭素循環農法による土壌改良。
肥料や農薬を使わず、人の知恵と努力で多様な作物が育てられるようになるのなら、それは否定する必要のない素晴らしい成果です。
ただ、目の前のものを、「改良が必要な弱い土」だと思い込んでいるのか、「ふさわしいものを、たやすく育てる頼もしい土」だと知っているのかで、そのあり方は自ずと大きくかわります。
もし、土の力を信頼して改良に取り組むならば、その「改良」とは限りなく、純粋に土を「育てる」ことに近づきます。
人も同じです。
自分を信頼しながら自分を「かえよう」とするならば、それは、自分を「成長させる」ことと、ほぼ同義です。
ならば、あえて「改良しよう」「かえよう」としなくても、ただ自分を、土を、育て、成長させていけばいいのではないかな。
ラオスの土に改良が必要だと思い込んだ反省の氣持ちを込めて──そんなことを記事の最後に記してみます。
わたしの個人的なラオスの旅に、ふたつの記事を通しておつきあいくださったみなさまに、心から──ありがとうございました。
SpecialThanksを、Mih0Chi4さんに!
わたしをkohjiさんの記事とつなげてくださったのは、Mih0Chi4さんでした。
詳細はこちらの記事に。
Mih0Chi4さんは、氣学エッセイストでいらっしゃいます。九星氣学の観点から世界を眺めた独特のご発信は、いつ読んでもとっても新鮮。
上の記事では、ラオスの土を五黄土星と結びつけてお話されています。
いつもと少し違った視点で世界を眺めたくなったときには、ぜひMih0Chi4さんのお部屋、ご訪問してみてくださいね。
こちらの記事に、数週にわたり、よっつのコングラボードが届きました。記事にご協力くださったみなさま、スキをくださったみなさま、本当にありがとうございました!