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【many screens】小宮果穂とは人間の業の肯定である【シャニマス】

※many screensと落語『死神』のネタバレがふんだんに含まれます。ご注意ください。

個人的に、シャニマスのコミュが好きな理由として「色々な視点を登場させる」というのが大きいなと思っています。アイドルたちがどう思うかも重要だと思うんですが、番組スタッフがなんであんなことしたのか、とかファンがどんな反応をして、それに対してアイドルたちが何を思ったのかまで丁寧に書いてくれているのが好きです。

最近のイベントコミュでは、キャラクターに対してどこか客観的な視点の要素を登場させることが多い気がします。ノクチルのイベントコミュ「天塵」では、読んでいる自分たちの考えを先回りするようなネットの意見を登場させて正直痺れました。

そんな中で、『many screens』はこの「客観的視点」によって果穂が考えて考えて、成長した話なんだと思いました。1人の女の子の視点から自分のあり方に悩み、考え、蝋燭の火がつくように画面がついてその向こうに沢山の生がいることに気づいて、改めて「客観的視点」があることに実感できた、というのが今回のコミュでした。

まず、放課後クライマックスガールズというユニットは「自分達が楽しんで周りを巻き込んでいく」という傾向にありました。象徴的なのは感謝祭やアジェンダ283でしょうか。秘密基地を作ったり、大臣を決めて役割分担したり、準備の段階から楽しんで本番に向かっていく、というのが放クラの良い所です。

今回のコミュも例に漏れず、前半まではいつもの放クラだなと思って読んでました。みんなでオンラインの打ち合わせを楽しみながら、果穂はかっこいいからという理由で死神役をやり、4人と一緒に死神を作っていきます。

ただ、女の子からのファンレターという「客観的な視点」をきっかけに果穂は悩みます。果穂が死神の役をかっこいいと感じたのは、悪い主人公を注意するヒーローのような存在に見えたからということですが、ファンの女の子からは男役の智代子をいじめてるように見えてしまった。
小さい子にとってはそもそも役と実際の人の区別がつきづらい、ということもあります。果穂もその子と同じように、ただの死神役と自分を切り離さないで考えていました。だからといって意見を蔑ろにせずにミーティングで真剣に考えようとするのは流石放クラといった感じでした。凛世の「『いつかわかる』と言われるのも嫌なもの」という言葉は、果穂というセンターがいるからこその考え方じゃないかと思います。

重要なのは果穂含めみんなが「考えること」だと思ったですが、その上で『死神』を演じるというチョイスが本当にすごい。

古典落語の死神というのは一説にはグリム童話をアレンジしたものと言われていて、噺家によってサゲ(落ち)が大きく変わる落語です。色々調べると出てきますが放クラ流にアレンジするにはうってつけの演目になります。

昔ラジオで聴いた話なんですが、落語家の修行というのはまずは見て覚えることから始まることが多かったらしいです。そしてどんどん自分のものにしていく。イベントsSSRのコミュで果穂は落語家のマクラをそのまま真似しようとして失敗していましたが、丁度そんなふうに始めは果穂も真似をするだけでした。

立川談志は落語を「人間の業の肯定」と表現しました。落語というのは借金やらお酒やら、世間からはダメなものとされる人間の弱い部分を肯定する話なんだと。落語にそういう人たちが多いことで人間のあるがままを肯定するような話が多い中で、果穂達が作った死神も、まさしく人間の弱さ「肯定」し、「生きよう、生きよう」と思わせるものになりました。果穂の場合は、肯定することに正義を見出している、と考えられます。

死神の最後の場面で、男は人間の寿命が蝋燭となって燃えている場所に連れて行かれました。落語の中では蝋燭が消える=死という表現をされていたので、何か暗いイメージが付き纏います。しかし、コミュの最後の場面で果穂が視聴者のスクリーンを「蝋燭の火がつくみたいに」と表現していたり、炎を燃やすことで生きることを促したり、たくさんの蝋燭に人間の生を見出したのが果穂なりの解釈だったんだと思います。自分の火で他の蝋燭に灯をともすように、ヒーローショーのようにみんなで声を出して応援する、果穂なりの死神です。

「この前は、なんにもわかってないまま演じてごめんなさい」なんて12歳が言わせる台詞じゃないですよ。でも落語の解釈とか、正義とか正解がない問題なんて真正面からぶつかるしかないのがヒーローってもんじゃないかと。

バッドエンドが嫌なら自分たちで納得するサゲを作ればいいじゃん、というなんとも放クラらしいコミュでした。

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