意外に絡まる生物学

(まえがき)

本稿は、東京大学の学園祭にて販売するべく知人が編んだ冊子に寄せたものだ。冊子の趣旨は大学内の面白い人・ことを集め、学園祭の来場者に伝えること。東大に興味のある中高生が主な読者だろう。サークルによる偏愛の追求、個人の課外活動や思惟に並んで、勉強・学問の面白さも題材の一つとなっており、ひょんなきっかけから自分は生物を担当した。

 皆さんは生物学にどんな印象を持っていますか?生物は暗記科目だとか、論理が曖昧で、合目的的なお気持ち表明に過ぎないと思っている方もいるかもしれません。大学受験では満点が取りにくいからやめとけなんてアドバイスも聞いたことがあります。私はずっと生物の授業が好きで、生物化学で理二を受験し、生命科学の研究室にいますが、冒頭の意見にも納得できる点はあります。とはいえ今回、自分の思う生物学の魅力を語る機会をもらいました。生物の内容に興味がない方や受験科目に選ばなかった方にこそ、その先に広がる学問分野の面白さを知ってもらえたら嬉しいです。


 生物が自然科学の中で異質な点は、物事があまりに絡まりすぎて、答えも終わりも見えないところでしょう。それをもたらす特徴として①複雑さ、②多様さ、③身近さ、④圧倒的わからなさ、を挙げます。

 まず複雑さとは、事象に影響を与える要因が多いということです。セントラルドグマ(遺伝情報がDNA→RNA→タンパク質の流れで表現されるという公理)で全てが決まっているように見えても、実際はゆらぎとフィードバックが絡まった平衡状態に過ぎません。進化と遺伝に関する法則もいくつかありますが、それらだけで今の生物多様性を説明できないのは明らかですよね。自然科学の実証には、わかりやすく単純化した実験系(モデル)が必要なのですが、変数が多い上に未解明なため、絶対にうまくいく系が作れません。受験問題に初期条件から結果を推論する問いより、事後的解釈を問う記述が多いのもこのためでしょう。最近は計算機の発達に伴って色々な生命現象のモデル化が実現されつつあるので、今後は情報学の色が濃くなっていきそうです。ご興味のある方はシステム生物学という、まだ黎明期の分野を除いてみると、数式の立ち並ぶ様子に生物のイメージが揺らがされるかもしれません。

 そして、複雑性故に②多様性の議論も絡んできます。遺伝子を調べる時に個体間・種間の比較は避けて通れませんし、誰も知らない種の専門家としてニッチなところを突き詰め斬新な発見に繋げる、といった独特の楽しみ方があります。また、対象にするスケールの多様性も大きな特徴です。サイズの単位の幅では素粒子から天体を扱う物理に敵わないものの、ゲノミクス(遺伝情報のデータサイエンス)からアーソロジー(地球全体の健康を考える学問)というのも、充分幅広く感じられませんか。分野それぞれで目に見えている現象を覚えなくてはならないから、生物の暗記要素が強まってしまうのだと思います。あるいは、ニュートン力学が天体の運動も記述できるとわかったように、いつの日か生物学でも普遍性の高い法則が見つかるでしょうか。

 三つ目の身近さは、直前に触れたスケール感だけでなく、時間感覚も、場所についてもです。植物が種子から急に芽吹いたり、動物の子が日に日に成長したり、昆虫が脱皮したりといった、ダイナミックながら日常的で等身大の変化を、知識を得ることで予測可能になる喜びがあります。こうした喜びは自然科学全般に共通ではありますが、生物学であれば特別な観測器は要らず、知識を得た手ごたえを実感しやすいです。さらに、生活と密接に関わっています。東大前期教養の総合科目でいうA〜Cあたり、いわゆる文系分野と絡むのです。ヒトの生理病理と歴史、環境や生態系から定まる衣食住と文化、進化や脳機能とは切り離せない社会性、ことば、心。これらの研究にあたって東大では学際的なプログラムが展開されていたりします。勿論、他の理系分野とも生物は絡まっています。物理系や化学系に進んだ先で、結局人間の生活と関連した研究テーマになったり、アーソロジーからはこのご時世逃れられなかったりで、自分がまさか生物系にくるとは思わなかった〜と言う人は私の周りに本当に多いです。(こうなるなら生物もうちょっと学んでおけばよかった〜とも。)

 最後に「圧倒的わからなさ」について。少し暴論かもしれませんが、肉眼で見える範囲での物理学、天文学、化学、地学の現象の解明はだいたい終わっています。そこでは自分で発見できる(≒すごい論文がかける)余地が小さいのに対し、生命についてはまだわからないことだらけで開拓余地が大きいと感じます。老化、記憶、心の所在、などなど。さらに、生命から新しく見出された知識はやはり手の届く範囲で応用しやすいです。生命科学にいかにも直結する医学、薬学、農学だけではありません。例えば工学の、マテリアルとかAIの開発では生体模倣=バイオミメティクスが流行りだし、有機合成の人が憧れる合成工場は土壌中の放線菌だったり。わかっていないからこそ、探求しがい・応用しがいがあります。(ちなみに個人的には細胞農業、フードテック、合成生物学なんてキーワードが激アツです。参画したいなぁ。)


 物理が得意な方にはお馴染みのように、自然界ではエントロピーは増大します。そのような法則に従って、論理的に不思議を考える点では生物学も他の科学と変わりません。生き物を愛でたり生命現象を特別視したりする感覚は必ずしも必要ないと思っています。とはいえ、エントロピーを減少させられるのはマクスウェルの悪魔(熱運動で拡散する分子を意識的に操れる架空の存在)と、生命だけです。


(あとがき)

同人誌という言葉の響きに憧れていた。今回の友人の冊子は正しくそれに類されるだろうから、寄稿する機会をもらえて嬉しかった。何より、自分を魅了する生物という学問を、学ぶことを、今一度見つめ直す機会をもらえてありがたい。執筆にあたっては、研究室の助教先生、学科のPhD先輩、東大のクラスメイト達(←僕よりよほど生物の未来を担ってる)から意見を頂戴し、種とさせてもらった。皆さん熱く語ってくださったおかげで、議論も一人での執筆も大変楽しかった。こちらにて謝辞とさせていただきます。(そもそも僕に勉強の楽しさを刷り込んだおじさんも、ダメ出し推敲ありがとう、楽しかった。)ただ、生物学と他の自然科学とを比較しきれず、学問を語るには粗削りになってしまったのが反省点だ。指摘、特に、うちの畑もこの魅力ありますけど?という声はぜひ聞かせてもらいたい。

読んでくれた個人の学びに、楽しさという彩りを添えられたら光栄と思い、本稿を書いた。その過程で実感したことは、楽しさをジャンプさせるのは、何よりも共に学びあえる仲間ということ。あとは、東大にはそんな仲間がいっぱいいること。

追記:冊子の電子版はこちらから購入できるようです。https://tsc.base.ec/items/86355842

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