何かモヤモヤする、の正体見たり。
モヤモヤしていたんです。
なんっか
モヤモヤするんだよなぁ〜…って
嫌だな、と思うことがあったんです。
モヤモヤの正体…
んん〜モヤモヤ!
じゃあどうしたいのかな…
と、掘り下げていくうちに
自分なりに理由はわかった
わかったんです。
でも、それでもモヤモヤしていて。
んんんんんーーーーー。
理由がわかったのにモヤモヤって??
モヤモヤしたいのか?
モヤモヤしていないとまずいことでも
あるのか?
真実が見えないように
モヤモヤさせちゃったりしてるのか?
本当の自分の気持ちに
気がついてしまったら
不都合なことでもあるのかな?
じゃあ本当の本当の本当の
本当の自分の気持ち
なんでも言っていいんだとしたら
なに?なに?
どうしたいの?
と、問い続けていくと
本当の気持ちが生まれてきた瞬間に、
その気持ちを必死に抑え込もうとしている
自分に気がついた。
そんな事思っちゃダメ!って。
「いや……それは人としてダメなやつ…!!」
とか。
封じ込めてる怒りなんかも、いろいろ。
いろいろを見つけてしまった。
例えば、人から粗末な扱いをされて
すごく悲しい、という気持ちもあった。
「自分を理解してもらえない悲しさ」
「人から粗末な扱いをされることを許可している自分への怒り」
これらは、つまり
「自分で自分を理解できない悲しさ」
「自分で自分を粗末に扱っている自分への怒り」
全部自分でした。
(ズコーーッ!!!)
モヤモヤが自分を守ってくれていた
モヤモヤが晴れて
嫌なことそのものを目の当たりにすると
嫌悪感が広がっていくような感情が
ゴロリと転がっていた。
だからか。
だからモヤモヤさせて
隠しておきたかったんだね。
だけど本当の自分が「気づいて!」
っていうサインが
モヤモヤとして現れてくれていたんだねこれ。
まだ、痛みに触れる準備が
整っていないから、モヤモヤと
ぼやかしている。
痛みを回避するための術。
モヤモヤ。
モヤモヤは麻酔みたいなもので
根源にある傷から生じる痛みを
ぼやかして回避させてくれている
でも痛みを訴える根源の傷は
気づいて、触れて、処置をしないと
どんどん膿を溜めていく。
痛みは敵じゃない
自分の生き方において
傷を生じることを選んでいるから
傷が生まれている
その根本原因に気づかない限り
その傷は何度も何度も現れることになる。
例えば
包丁の扱い方を誤っていて
毎回同じ指に切り傷ができる
それなのに
包丁の正しい扱い方を学ぼうとせずに
傷を処置している。
何度も何度も同じ場所に傷を作る。
やがてその箇所は皮膚が硬くなり
包丁から守る働きをしてくれる反面
鈍感になっていく。
そのやり方だと傷になるよ、って
痛みとして身体が教えてくれていたのに
無視していれば
今度は身体は「感じなくなるように」と
働いてくれる。
本当の自分の気持ちや
出来事が起きた本当の意味に気づかないと
気づくまで、気付けるように、と
身体は賢明に伝えてくれているのに
その伝えてくれたサインを疎ましく思う。
「イライラする」
「なんっっかモヤモヤする…」
「なんか胸が苦しい」
「皮膚が痒くてたまらない」
「頭が痛い…」
これは、本当の欲求を無視した結果
生じたフラストレーションによって
「不快」を感じる脳内物質が分泌されたり
痛みなどの身体症状として現れるさま。
やがて
「あぁ〜無償にラーメン食いてぇーー」
「頑張ったご褒美にチョコ食べたい〜〜」
と、今度は「快」を感じる
脳内物質を強制的に出したい
という欲求に駆られる。
いわゆる
「飲む(食欲)」
「打つ(ギャンブル)」
「買う(性欲)」
という欲求を満たす事によって
「ヨッシャ〜〜〜〜〜!!!!」的な
ドーパミン、ドバァアン!!で
どうにかやり過ごそうとする。
その回避策では
もっとドーパミンを、もっと、もっと…と
結局、○○中毒になっていく。
行為にふけることが
目的のようでいて
ただ脳内に快楽物質を流しまくりたいという
欲求に飲み込まれている。
そもそもの
不快を感じる出来事を無くす
もしくは、不快だと感じなければ
代償行為は不必要になるのに。
や、持論ですよ。あくまで。
もっともらしい感じで
語っちゃいましたけど。
「それってエビデンスとかあるんすか」
なんて詰められたら
「ぐう」って答えますけどね。
(ぐうの音)
すべてに意味がある。
何故、出来事が起きたのか
その意味に気づこうとせず
インスタントな「ラク」「たのしい」を
求めたがるエゴ。
それでいいんだと思う。
それが人間だもの、だと思う。
人間、必ず何かしらに
依存して生きているんだし。
何にも悪いことじゃない。
何かにしがみついたり
握りしめて離したくなかったり。
だけど、その人間らしさから
解脱したいともがくのならば
答えは自分の内側にしかないことを
覚悟決めて、触れて、感じて
味わって、気づいていくしかない。
触れたら痛いかもしれない。
でも、痛いと思っていただけで
痛くも痒くもないかもしれない。
でも、触れてみた本当の自分が
もたらしてくれる
気づきの先には必ず真実があって。
真実は自分を自由にしてくれる。
それは間違いない。